選考を終えて(7月)

 今月は三編しか入選作が選べないというのに、秀作がたくさん寄せられました。これまでで一、二を争うレベルの高さでしょう。そこで、編集部と相談の上、佳作を五編出すことにしました。どうぞお楽しみください。

 「落陽」は、夏がいっぱい。思い切り夏を描いた素直な作品です。季節の風物を羅列しただけでなく、よく整理されています。日常的で小さな情景と対照的に雄大な題名がいい。

 「蝉時雨」は、生をめぐる考察に終始します。最後までよく書き抜いてくれました。蝉と人間の垣根さえ超えたものに寄せ、作者が最後に付した歌も印象的です。

 「暴動」は、じりじりとした焦燥感と怒りを夏に重ねています。強いエネルギーを持った作品です。爆発の手前で止めたことで、より力が増しました。異彩を放っています。

 「告白」は、いったいこの話はどこに向かっているのだろう、と思いながら読み進め、予想外のところへ連れていかれました。これまた夏らしい物語に違いありません。

 「たとえ世界が溶けたとしても」は、真っ白な窓とソーダ味のアイスの青さに感服。哀しい夏ですね。私なら最後の一文は削るかな。いや、でもこれは私の小説じゃない。

'08年7月「このまま夏が…」
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落陽

Kasaku2_4宮崎 亮太さん 19歳(予備校生)

7月の書き出し
 「このまま夏が終わらなかったら、どうする?」
 真顔で聞かれて、返事につまってしまった。

 「君はどうなんだい」
 「僕かい? 僕はどこか寒い国に行きたくなるのかなあ。暑いの苦手だし」
 じゃあ何故そんなことを言い出したのかと思ったけど、口には出さなかった。
 「で、君はどうする?」
 僕は夏が好きだ。だってどろっとした生温い空気の中、下敷きをぱたぱたさせながら、かったるい授業を聞く必要がなくなるし、一年で一番楽しみな夏休みが待っているのだから。家にいればクーラーだってある。日中は使わないように言われてるけど、譲り受けた半透明のグリーンとクリーム色の、いかにも昭和ってかんじの扇風機の前に保冷剤を掛けて、少し「ひん」とする風を浴びて、あーーーーと意味もない声を発するのが、なんともたまらないのだ。それに週に一回ある子供会のプール、去年は遊園地に行ったっけ……。
 「僕は大喜びだなあ。学校にも行かなくて済むし、夏祭りや海に山……それにキャンプ。遊び放題じゃないか」
 「そういえばそうだなあ。でも僕すぐ日射病ってやつになっちゃうんだ。そういう体質なんだって。だけど遊び放題ってのはそそられるね。あ、そういえば前行ったキャンプのこと覚えてる?皆で川で釣りしてたとき山下くんがさあ――」
 こうやって過ごしていくうちに夏も終わってしまうんだろうな。ふとそんなことを考えながら空を見上げると、映画で見た大怪獣よりもどでかい、綿菓子みたいな雲が浮かんでいた。日も暮れかけ、すこし赤みがかっていて、遠くでカナカナがなんとも悲しげな声で鳴いている。
 ああ、夏が終わるんだ。まだ宿題残ってるや。なんだか胸がざわめくような、ようやく涼しさを帯びてきた風が体の中まで通り抜けてしまったかのような、なんだか分からないけど、妙な焦燥感を覚えた。
 何処かの大人に聞いたけど、大人になるとこんな時間ってないんだって。だから皆僕たちを羨(うらや)む。僕にとっては、逆に早く大人になって、今は出来ないこと沢山したいのに…………。
 「なんだかんだ言ってもさあ、夏っていいよね」
 「え? 君は夏が好きなんだろ? 何言ってるんだよ」
 「いいや、ただなんとなく………そうだ、この後花火しない? 皆も誘ってさあ」
 「いいねえ。じゃあ今から早速竹田のおばあちゃんのとこに買いに行こうぜ」

'08年7月「このまま夏が…」
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蝉時雨

Kasaku2_4山口 和恵さん 20歳(大阪大工学部2年)

7月の書き出し
 「このまま夏が終わらなかったら、どうする?」
 真顔で聞かれて、返事につまってしまった。

 「何? 地球温暖化とか、そういう話?」
 友人を見上げながら、僕は苦笑して答えた。しかし、直ぐさま後悔することになる。クマザワは僕の方を見もせず、ただ遠くの空を見つめたままだ。何でもっと気の利いた返事を返せないのか。僕は心の中で自分に悪態をついた。耳障りな蝉時雨(せみしぐれ)がわんわんと頭の中に響く。あんなにバカみたいに鳴き叫ぶことにエネルギーを使わなければ、もっと長く生きられるだろうに。
 クマザワは不思議な男だ。彼と出会ったのはほんの一週間前。今まで、ほとんど人付き合いをしたことの無かった僕なのに、彼とはごく自然に仲良く、友達になってしまった。それどころか、彼とはこの先も、死ぬまでずっと友達でいる、そんな気さえした。暗い部屋の中で、「友達作り」に延々と悩んでいたあの十数年は何だったのかと、僕は僕の心配性に呆れてしまう。
 「お前は自分の一生をどう思う? もう一度、最初からやり直したいとは思わないか?」
 今度はじっと僕の目を見つめ、クマザワが問いかけてきた。僕は、またしても即座に返事を返せなかった。
 僕は自分の過去をぼんやりと振り返ってみる。なかなか悪くない。もちろん、これが最良で最高のライフかと問われると、自信を持って、首を縦には振れない。しかし、もう一度ライフをやり直させてやろうか?と、神様に提案されたって、僕はお断りだ。僕は今まで、それなりの努力と苦労を重ねて来た。もう一度、ライフを歩み直したって、今より良くなる可能性より、悪くなる可能性が大きいように思う。過去においてのいくつかの転換点、岐路、選択、全てにおいて、僕は僕の限界を、最良を歩んできたのだ。もっと頑張れただろうとか、もっと良い選択肢があっただろうとかは、その都度にも、きっと自覚はしていた。でも、全てのことに全力を出すことは難しいのだ。他の時間を捨ててまで、苦しいことに勤(いそ)しむのは、逃げたくなる事なのである。もう一度、あの生のプロセスを歩むなんて、とてもじゃないが面倒だ。
 なんだ、お前は結局、自分のライフに満足しているんじゃないか、とクマザワは小さく笑った。
 「例え、このまま日本がずっと夏でも、僕達には関係ないよ。今年の夏だって、僕達は生きて越せない。僕達が死んだって、きっと、夏はまだ続いているんだ」
 僕は思いっきり幹を蹴飛(けと)ばして、一面青の世界に飛び出した。クマザワが慌てて、僕の後を追い、必死に翅(はね)を動かす。そんな彼の様子を見て、僕は嬉しくなった。クマザワは僕よりも、一週間も早く土中から出ている、いわば地上での先輩だからだ。彼に追いかけられる日が来るなんて、なんて気分が良いんだ!
  蝉時雨 盛夏の宴 命果て
          知らぬ終りは 永遠(とわ)と違(たが)わず

'08年7月「このまま夏が…」
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暴動

Kasaku2_4桑水流(くわずる) 勇気さん 20歳(大阪大工学部4年)

■7月の書き出し
 「このまま夏が終わらなかったら、どうする?」
 真顔で聞かれて、返事につまってしまった。

 どうするもこうするも、僕たちは働き続けるしかないのだ。夏の間じゅう働き続けるという契約を交わしてから、早いもので3ヶ月。夏は未だ、そのしっぽを見せない。「働くよ」と僕は言う。「僕たちにはそれしかないんだから」
 君は呆(あき)れたように首を振る。
 君は、僕たちの中でいちばんの怠け者だった。それは自他ともに認めるところだろう。君はいつでも岩の陰でタバコを吹かしていた。そんなことをしていたら、役人たちに見つかるのは当たり前だった。役人たちは、怠ける者に対しては容赦なく暴力を振るった。長い棒で突き、硬くて大きな靴で蹴(け)り上げるのだ。僕たちは、常に監視された。
 「あれ、ぶっつぶそうぜ」
 役人たちが首からぶら下げている高性能の双眼鏡を指差し、君は言う。
 僕たちの労働。枯れた草を刈り取り、それをピッチフォークでつまみ上げる。台車でもって運び、火をつけて焼く。それだけ。
 いつも身体じゅう傷だらけになる君に、僕はたびたび次のようなことを言った。
 「立って、僕たちのそばにいなよ」君は目を真ん丸にし、どうして?という顔をする。「そうすれば、殴られなくて済むよ。とにかく、僕たちと同じように、立っていさえすればいいんだ」
 無意味だ、と君は吐き捨てる。
 ある日、君はひとりで暴動を起こした。仲間はいなかった。たったひとりで、誰にも何も言わず、100の役人に向かって戦いを挑んだのだ。3日3晩寝ずに戦った後、君は帰って来た。
 髪の量は目に見えて減り、歯は抜け落ち、目ヤニはびっしりで、着ていた服は黒い血で染まっていた。殴られ、青黒く腫れた君の眼の奥に宿る光にはしかし、凄(すさ)まじいものがあった。
 「死ぬもんか」と君は言った。抜けた歯のせいでふがふがと喋(しゃべ)り辛そうだった。「なあ、夏は終わるのかな」
 判らない、と僕は答えた。精一杯の誠意を込めて、僕は言った。
 戦利品として、君は役人たちからひとつ、双眼鏡を奪ってきた。戦いから帰った次の日から、君がピッチフォークの代わりに双眼鏡を手に立ち上がったのは言うまでもない。

 「何が見える?」レンズを覗(のぞ)き込む君に訊(き)いてみる。
 「あいつらが、こっち見てるのが見えるよ」けらけら笑いながら君はそう言った。

 夏の終りに、僕たちは手を出せない。

'08年7月「このまま夏が…」
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告白

Kasaku2_4芳田 直征さん 19歳(徳島大工学部1年)

■7月の書き出し
 「このまま夏が終わらなかったら、どうする?」
 真顔で聞かれて、返事につまってしまった。

 困った顔をしていたに違いない。
 目の前の男はこちらの表情を読み取ろうとするかのように、視線を外さない。
 「最近地球全体が温暖化、なんて云ってどんどん夏の気温が高くなってきている。どうなるかわかるかい?」
 無言で目を逸(そ)らす。
 「モノが腐りやすくなると思わないか?」
 気分が悪くなる映像が頭の中に浮かび、思わず目の前の男を睨(にら)みつけた。しかし、そんな事をちっとも気にしない様子で、男は言葉を続ける。
 「最初はなんとなく、臭いな、と思うかもしれない。その臭いが段々強くなるんだ。吐き気がするくらいに」
 嫌悪感が顔に溢(あふ)れる。
 「それは変色してくるだろう。そして指先で触れると、ぐずぐずに崩れ、弾けて、妙な汁を撒(ま)き散らす」
 なんでこの男はこんな事を嬉しそうに話せるんだ。
 演技なのか本気なのか。
 「原型を留めず、蛆(うじ)が湧き小蝿(こばえ)が集まる」
 未消化の内容物が胃から咽喉の奥に逆流してきそうだ。
 「暑くて暑くて、それだけでも我慢できないのに、胸を刺激する、吐き気のしそうな悪臭が漂い、体中を包み込む。目で見ても、形のなくなったそれは、生命の欠片もない只の塊。少し前まで動いていたとは思えない肉と脂と何かの混じったモノ」
 もう止めろ。
 きっと、青白い顔をしていたに違いない。冷や汗がぶつぶつ湧き出し、皮膚の表面を流れる。息が荒い。指がぶるぶる震える。
 吐きそうだ。思わず口元を押さえる。
 「まぁ、そうなったらお互い大変だと思うんだ」
 男はこちらを覗(のぞ)き込むように話しかけた。
 真剣な表情の中に、多少の作り笑いを浮かべ。
 薄暗い警察の一室で、目の前の男、自分より少し年上であろう刑事が返事を促す。
 「そうなる前に、さあ、そろそろ君が殺して死体を埋めた場所を、教えてくれないかな?」

'08年7月「このまま夏が…」
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たとえ世界が溶けたとしても

Kasaku2_4吉田 奈央さん 18歳(関西大文学部1年)

■7月の書き出し
 「このまま夏が終わらなかったら、どうする?」
 真顔で聞かれて、返事につまってしまった。
クーラーが付いているのに全開にした真っ白な窓からは、暑さと蝉(せみ)の声が流れ込んでくる。
 「そりゃあ」
 暑いだろ、と僕は言う。だね、とそいつは笑う。
 「きっと暑さで建物も人も地球もみんなどろどろになってさ、蒸発して消えていくんだ」
 そう言ってそいつは溶けてきた棒付きアイスを一舐(な)めする。僕のそれも溶けてきていて、ソーダ味の青い液体が手を伝う。四角い地球みたいだ、と思った。
 「それでもさ」
 そいつは
 「僕は、夏が終わらなければいいと思うんだ」
 そう言って笑った。向日葵(ひまわり)みたいな笑顔だと思う。植物が笑うところを見たことはないのだけれど。
 「夏なら、来年も来るだろ」
 僕はべたついた手を舐めながら言った。そんなことはないよ、とそいつは言う。
 「今年も来年も、いつだって夏は一度きりさ」
 そう言ってまた笑った。
 遠くから足音が近づいてきた。見つかるとまずいので、僕たちは急いで残りのアイスを頬張る。ぽたり、と服に青い染みができた。
 突然、お、とそいつは言うと、食べきった後の木の棒を僕にぐいっと突きだして、あげると言った。
 「捨てとけってか?」
 「夏が終わらないうちに、使いなよ」
 そう言ってぴょんと椅子(いす)からおりると、じゃね、と手を振って出て行った。入れ違いに人が入ってきた。点滴替えますねーとてきぱき作業をしていく。あれ、誰かきたの?と出したままの椅子を見て尋ねられる。僕は、知らない、と答えてベットの上で座り直した。
 二週間ほど前だった。病気が進行し、秋が来る頃には死んでいるだろうという宣告に、特別な何も感じなかった。ああ、蝉の声と一緒に消えるんだなと思った。
 あいつに渡された木の棒に目を落とす。溶けた地球の中心には、掠(かす)れた片仮名でアタリ、とあった。これって有効期限とかあんのか?と少し可笑(おか)しくなる。僕はそれを引き出しに仕舞って横になった。名前も知らないあいつは、どんなところででも生きられるんだろうか。そんなことを思って服に付いた青い染みをなぞってみる。
 どろどろに溶けた世界も悪くないと、少しだけ思った。

'08年7月「このまま夏が…」
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溶ける

入選作品松井 彩さん 18歳 (武庫川女子大薬学部1年)

■7月の書き出し
 「このまま夏が終わらなかったら、どうする?」
 真顔で聞かれて、返事につまってしまった。

 どうって言われても……どうしようもないから僕らは困っているんじゃないか。
 いや、正確には僕、か。
 ついさっき「どうする?」と尋ねてきた顔を見返した。
 僕と、同じ、顔。
 「結局、クーラー作戦も無意味だったし……温度は関係ないのか?」
 僕と、同じ、声。
 「冬になったら固まるのか? いや……このまま固まっても困るよな……」
 フローリングの床にでろんと拡(ひろ)がる物体、それは紛れもない僕だ。
 僕は溶けてしまった。この夏の暑さに。
 クーラーをいれるのが勿体(もったい)なくて、じわじわと身体だけでなく脳まで侵食する高温から少しでも逃れるため、白昼に僕は眠った。
 熱、湿度、セミの耳障りな音が極彩色の悪夢となって押し寄せてくる。それでも目を開ければもっと苦しいことは分かっていたから、僕は瞼(まぶた)を閉じ続けた。
 長い間だったのか短かったのか、そうしていた僕はふと目を開けた。
 床が、やけに近い。寝転んだ時足が目についた小さな卓袱台(ちゃぶだい)の裏側が見える。寝相が悪くて卓袱台に近付いたんだろうか。そう思って僕は身体を起こした――つもりだった。
 目線は床と垂直になったが、異様に低い。まるで地を這(は)っているような感覚だ。
 ――どうなってるんだ? 僕は周りを見回す。視線が一瞬鏡を掠(かす)め、何だ、あれ――、再び鏡に戻った。そこに映っていたのはどろんとしたゲル状に溶けた僕だった。
 「な、んで、……?」
 張り付いた喉(のど)からとろりと声が洩(も)れた。歩く、というより這うようにして鏡に近付く。とろけた肢体が限界まで引き伸ばされ、ぷつりと切れる音が背後からした。痛みはなかったが、驚いて振り返ると千切れた僕の下半部にみるみるうちに顔らしきパーツが浮き上がってきて僕に話し掛けてきた。
 「どうする?」と。
 それでさっきから僕ら、もとい僕は元に戻ろうとクーラーをつけたり、くっついてみたり、躍起になっていたのだけれど、どうにも解決策は見当たらない。
 もう一人の僕が床を這うと、またもう一人の僕が生まれた。僕も身体を捻(ひね)ると新しい自分が作り出される。狭い部屋はもう、僕自身で溢(あふ)れ返っていた……。

[2008年7月28日掲載]

Alicekara_1 暑くて暑くて、溶けてしまいそう。よくそんなことを言いますが、本当に溶けてしまいましたか。これは大変。読んでいるうちにこちらの体まで……と思わせるほどの筆力です。面白いものが読めて、暑さを忘れました。

'08年7月「このまま夏が…」
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釣り人と樹

入選作品塩谷 友望(ゆみ)さん 17歳 (関西大第一高校3年)

■7月の書き出し
 「このまま夏が終わらなかったら、どうする?」
 真顔で聞かれて、返事につまってしまった。
とりあえず「そうだなあ、外で寝ても風邪引かないし、着るものもTシャツ一枚は楽でいいな!」と言っておいた。途端、大ぶりの枝が風もないのに不穏に傾(かし)ぐ。彼の怒りを感じて男は慌てたが、もう遅い。木の実がばらばらと落ちてきて、水面に波紋を広げた。釣り餌(え)に集まりかけていた魚影が、驚いてパッと散る。
 「ああっ」
 男は抗議を込めて樹を仰いだが、彼はそ知らぬ顔で優雅に風になびいた。思い出したように蝉(せみ)が鳴く。今は夏ではないが、気候はすでに暦を無視していた。世間は温暖化がどうのとひどく取り乱しているが――こうなることはもうずっと前から分かっていたはずだ。
 男はいつもこの大樹の根元にやってきては、日がな一日釣糸を垂らして過ごしている。もっぱらの話し相手であるこの樹はちょうどいい具合に水際に生えており、急激に暑くなったここ数年も枝葉を繁(しげ)らせてよく日差しを防いでくれた。
 今でこそ常緑広葉樹のようになっているが、かつての彼は四季にあわせて巧みに姿を変える風流な樹だった。匂(にお)い立つように鮮やかな春、自己主張の激しい緑の夏、紅葉を経て、秋は潔く葉を散らす。冬は一転しておとなしく、寒空の下で黙って春の訪れを待つ。男が思うに、この樹は人間よりよほど表情豊かである。
 「このまま夏が終わらなかったら」
 しばらくして、男が真剣な調子でぽつりと言った。
 「お前を切り倒して木の舟を作って、海を渡るよ」
 彼はざわりと枝葉を震わせ、男の顔へまだらの影をうごめかせた。
 「逃げるのか。この地を捨てるのか。ここは私が何百年も生きた土地なのに」
 非難めいた言葉にも、男は動じなかった。
 「新天地を目指すんだよ。ああ、その時はお前の種も持っていってやろう。どこかにある大地に到着したら、蒔(ま)いて育ててやるよ」
 男は立ち上がり、ひょろりとした体躯(たいく)を折り曲げて辺りの木の実を拾い始めた。樹はため息をついて好きにさせた。地面にはまばらに落ちた茶色い葉に混じって時折目に眩(まぶ)しい新緑もあり、この樹が異常な気温と体内サイクルの食い違いに戸惑っているのが分かる。懐から出した袋を木の実でいっぱいにすると、男は鼻歌混じりに釣り竿(ざお)の元へと戻っていった。
 そんなやり取りをしてから、どれほど年月が流れただろう。恐るべき速さでせり上がってきた海面を目の前にして今、大樹の側(そば)に男の姿はない。いつかの約束通り大樹で舟を作り、少しの荷物と実のつまった袋を手に、広がった海へと漕(こ)ぎ出していった。いまや切り株だけとなった樹は、ひたすら男の旅の幸運を祈った。
 それから、男がどうしたのかは知らない。

[2008年7月14日掲載]

Alicekara_1 イメージの泉のような一編ですね。作品の中をとても静かな空気が流れています。そして、描かれているのは別れと滅びの情景でありながら、淡い希望の光が射(さ)している。文章について、私が言うことは何もありません。

'08年7月「このまま夏が…」
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宿題

入選作品橋本 仁美さん 20歳 (関西大政策創造学部2年)

■7月の書き出し
 「このまま夏が終わらなかったら、どうする?」
 真顔で聞かれて、返事につまってしまった。
このまま夏が終わらなかったらか……僕は口に含んだ氷をバリバリと噛(か)み砕きながら、したたる汗を袖で拭(ぬぐ)った。そうだなあ……そんなこと考えたこともなかったや。
 「とりあえず俺は、こんな宿題をやめて蝉(せみ)を取る」
 真っ黒の日焼けの顔に、にゅっと白い八重歯を突き出して、満面の笑みをこちらに向けてくる。僕が黙ってページを指差すと、鉛筆を握ったまま、バタンと畳に仰向けに倒れてしまった。
 「あ~っ、いいよなあオマエは。頭も良けりゃ蝉取りもうまいしさ。女の子にもモッテモテ~ってな」
 「いいからほら、ここはさっき説明した通りに解くんだよ。真面目にしないと教えないぞ」
 まったくやる気のない様子に、僕はため息をついて、開け放した縁側から空を見上げた。じっとりと暑い中に、時折吹き込む風が心地いい。チリン、とどこかで風鈴の音がして、乾いた土と葉っぱの匂(にお)いがふわっと鼻をかすめていった。
 「俺ら、次の夏もその次の夏も、宿題やんのかな」
 「うん。そうじゃないかな」
 そんなに宿題が嫌なのかと、ちょっとあきれる。
 「その次もぉ? そのまた次の次もぉ?」
 ちゃぶ台の下で、畳にべったり張り付いた声がする。
 「うん。きっとそうだろ」
 素足をこちらまで投げ出して、ふう、とお腹(なか)をふくらませながら盛大なため息をついている。
 「おとなになるって、面倒くせーな」
 「そうかな」
 「楽しい夏はすぐ終わるし、宿題ばっかりだし」
 いいことねえや、と口をとがらせたまま、またべったりと畳に張り付いてしまった。当分、宿題に向かう気はなさそうだ。
 「二人とも! スイカ、切れたわよ」
 「えっ! おい、スイカだってさ、行くぞ!」
 母さんの声がするやいなや、待ってましたとばかりに畳からすごい勢いで起き上がってきた。まったく。
 台所に駆けていくそのちょっぴり太い背中を見ながら僕はなんとなく切なくて、不思議な気分になった。
 ふと振り返ると、縁側にはさっきと同じ青い空が、きらきらとただそこに静かに横たわっていた。
 「――どうぞ、お席へ」
 僕はその瞬間、はっと我に返った。緊張のせいだ。 三十年以上も前のことなのに、つい今しがたのことのように、やけに鮮やかな白日夢。ふっ、と思わず笑みがこぼれた。よし、行こう。僕はくしゃりと原稿をしまうと、各国の代表と通訳をぐるりと見渡して、ゆっくりと口を開いた。チリン、と、どこかで音がして、ふわりとあの匂いが鼻をかすめた気がした。
 「このまま夏が終わらなかったら、どうしますか?」

[2008年7月7日掲載]

Alicekara_1 何気なく読み進めてきて、「――どうぞ、お席へ」の意味がわかった瞬間に、はっとしました。そういうことだったのか。題名がダブルミーニングになっているのですね。風鈴の音、庭の匂いの使い方も心憎いほどです。

'08年7月「このまま夏が…」
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