絵画迷宮

Kasaku2_4山田 那名江さん 23歳(市職員)

6月の書き出し
 がらんとした昼下がりの美術館で絵に見入っていると、不意に声をかけられた。振り返ると気のよさそうな小さな老人がちょこんと立っている。
「おまえさん、『絵渡り』じゃな」
 老人は言った。一瞬冷や汗をかいた男は目の前の好々爺(こうこうや)を見て胸をなでおろした。どうやら奴らではないらしい。『絵渡り』とは様々な絵の中を渡り歩くものをいう。ただ男は『絵渡り』の中でも『絵荒し』という犯罪者なのだ。様々な絵に入り込んでは貴重な絵画を台無しにする。モナリザの後ろに隠れ、肩の上に手を置いて心霊写真のようにしてみたり、ムンクの叫びのバックで全力のピースサインをしてみたり。他愛ないものだが、作品価値を失墜させる行為として『絵画警察』に追われている身なのだ。
「その絵に入るつもりなのかい?」
 老人がいうその絵とは、男が今まさに入ろうとしていた絵、かの有名なルノワールのムーラン・ド・ラ・ギャレットである。木の葉を隠すなら森の中。犯罪者が隠れるなら人ごみの中、だ。
「ええ、昔からルノワールが好きなんですよ」
「でも、もっとおもしろい絵があるぞ」
 そう言って老人が指差した先に一枚の絵がかかっていた。どうやら、壁にかかっている絵を描いた絵らしい。さらにはその描かれている絵の中にも絵が描かれており、マトリョーシカのように際限なく続く絵の中の絵が平面の絵に奥行きをもたせている。
 老人はその絵に向かって歩き出し、男も老人につられ、ふらふらと絵の中に足を踏み入れた。額をまたぎ、どんどん絵の中の絵の中の絵の中へ入っていく。奥に行くにつれ空気が重くなり、薄暗くなっていった。
「じいさん、もういいから、俺は引き返すよ」
 老人は男の言葉を聞いてピタリと立ち止まり、ものすごい勢いでふりむいた。その顔には醜い笑顔が張り付いている。そして突然、老人は今二人が越えた額をまたぎ、ひとつ手 前の絵の中に戻った。そして次の瞬間、老人を追おうとして踏み出した男の目の前の空間がちぎれた。老人はひとつ外から、男の入っている絵を引き裂いたのだ。
「わしの愛する芸術を荒らしやがって。一生絵の中から出てくるな」
 そういって老人はもと来た道を戻っていった。
「待ってくれ、お願いだ、ここから出してくれ、出せ! 出せえぇ!」
 老人は高笑いをしながら引き返した。しかし、行けどもなかなか外に出ることが出来ない。後ろを振り返っても絵の中の絵が続いているばかり。老人は早足になり、やがて駆け足になった。足がもつれ、派手に転んだ。そして、転んだ老人の目に映ったのは、人の足。顔をあげると先ほどの男が耳まで裂けんばかりの笑顔を浮かべて立っていた。

'09年6月「がらんとした…」
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描かれた彼の女(かのひと)

Kasaku2_4小川 奈緒美さん 22歳(立命館大国際関係学部卒)

6月の書き出し
 がらんとした昼下がりの美術館で絵に見入っていると、不意に声をかけられた。しかし館長は金の額縁の中に描かれた、主のいない豪奢(ごうしゃ)な椅子(いす)を見つめる視線を逸(そ)らそうとはしなかった。それでも声は語りだす。
 館長殿、今日で最後ですな。我々がお会いするのも、貴方(あなた)がこうしてこの絵の前に立つのも。貴方だけではありませんよ。前の館長殿も、その前の館長殿も、あの方の姿を見ないままにここを去ったのです。
 さぁ。約束どおり、あの方の姿を拝することができなかった貴方にこの絵についてお話しましょう。
 これを描いた画家は実に見事な技巧の持ち主でした。本当に美しい絵を描く画家でしたよ。でなければ、陛下が正式に王女の肖像画の作製を依頼しなかったでしょう。しかしお分かりの通り、ものの本質は技巧によってのみ描かれるのではありません。王女は自由を愛しておりました。馬に乗り、野を駆け回り、木陰でまどろみ、詩をつくる。お分かりになられますかな。それが彼女でした。だがこの絵に描かれたのは美しいドレスを纏(まと)った、王家の娘でしかありませんでした。
 では何故(なぜ)彼女はそんな絵に宿ってしまったのかと思われるでしょう。それはね、眼(め)ですよ。画家が描いた王女の眼。それだけはまさしく彼女の眼でした。生命の炎。魂の持つ輝きとでも申しましょうか。その眼に、彼女自身の魂が引き寄せられたのだと私は思うのです。そうは言っても、やはり彼女はこの絵に描かれた姿が気に入らないのでしょうな。お気の強い方なもので、すっかり絵の中から姿を消してしまわれました。
 私はこの魂が朽ちるまで、こうしてこの絵を見守る所存です。貴方がいなくなって目下の心配事は、後任の館長殿は私がこの人の傍(そば)にいることを許さないのではないかということですな。ご存知の通り、ある種の人間にとっては展示する絵の配置もまた芸術となるのです。貴方はこの絵の横には私が飾られるべきだと仰(おっしゃ)いましたが、次の館長がどう思うことやら……。
 我々は永遠ではありません。これから先、塗られた絵の具は朽ちてゆき、同時に我々の魂も浄化されてゆくのです。大学の優秀な修復チームでも繕えぬものが、芸術にはあるのですよ。それゆえに、芸術の瞬間の美しさは人の魂を揺すぶるのですよ。
 さぁ。館長殿。もう出発の時間ですな。さようなら。

 一週間後、美術館のある街を大きな地震が襲った。瓦礫(がれき)の山と化した建物の中で、二枚の絵は折り重なるような状態で発見される。上にあった騎士の絵は瓦礫で傷つき、もはや修復不可能な状態だったが、下にあった絵は奇跡的にわずかな損傷だけですんだ。それは椅子に腰掛けた王女の絵。その頬(ほお)には涙が伝っていた。
 駆けつけた元館長はそれを見て言ったそうだ。
 ――騎士が、役目を果たしたのですよ。

'09年6月「がらんとした…」
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それはだまし絵のように

Kasaku2_4田中 和樹さん 23歳(近畿大文芸学部卒)

6月の書き出し
 がらんとした昼下がりの美術館で絵に見入っていると、不意に声をかけられた。
 声のした方を向くと、いつからそこに居たのか、小奇麗(こぎれい)な格好をした初老の紳士が皺(しわ)の少ない顔をにこやかにして立っている。
  「いえ、気に入ったというよりも、いささか奇妙なもののように見えまして」
   こちらの絵がお気に入りですかと尋ねた紳士にそう答えながら、私は少し前から眺めていた絵の方へ視線を戻した。「絵を見る者」という題のついたその作品は美術館の一角らしい場所を描いたもので、幾つかの絵画や彫刻が並べられている風景の中にはそれらを見て回っている人の小さな後ろ姿が一つ、そっと描き込まれている。
  「一目した時には、鏡かしらんとも思いましたね、芸術は色々ですから、或いはそんなこともあるかもしれないと思ったんです。まあ、目の前に映るはずの私が映らないんだから、 鏡とは違うとすぐに分かりましたが、そう分かっても眺めているとまた、だんだん鏡でも見ている気になってくる」
  「おや。貴方(あなた)のような人にお会い出来たのは久しぶりだ」
   私が絵の感想を述べると、紳士は先ほどと似た柔らかな声の内に幽(かす)かな興奮の色を含めて云った。
  「この作品は私のものなんですがねえ、まったく、貴方のおっしゃる通り、美術館に置かれた鏡でも描くような気持ちでこれを作りました。ええ、日々の中に溶け込んでいて見落とされてしまうような、すぐ身近にあるのにまるで気づかれずに消えていってしまうような景色、そういう景色を描きたくって、ここの景色を閉じ込めてやるような気持ちで作ったのです」
  「なるほど、美術館で絵を見て回る人の姿なんてものは見ているようで、案外見ておらんものですな」
  「そう、そうなんですよ、たとえ美術館でそれが目に入ったって、関心は展示品の方に行っているからそれは意識には残らない、実際は見えているのに、見ていないわけです。そして、絵を見ている人間というのはね……」
   紳士はもう小躍りでもせんばかりに弾んだ調子で喋(しゃべ)っていたが、突然、その先の言葉を押しとどめた。それから館の内に自分と私しかいないことをわざわざ確かめてから一足こちらに歩み寄って囁(ささや)いた。
  「絵を見ている人間というのはね、自分が見られていることをまるで意識しないんですよ」
  「はあ」微笑を崩さない紳士に曖昧(あいまい)な返事をすると、私は急に不安になって、しばらく前から気になっていたことを続けて尋ねた。
  「この美術館の出入口はどこだったでしょうか?」
 いつの間にか、私は絵から目を離していた。そして青ざめた顔が額縁の向こうから私の方を覗(のぞ)いているような気がして、もはやその作品へ視線を戻すことが出来なくなっているのだった。

'09年6月「がらんとした…」
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切り裂かれた絵

入選作品渡辺 翔大さん 19歳(関西学院大理工学部2年)

■6月の書き出し
 がらんとした昼下がりの美術館で絵に見入っていると、不意に声をかけられた。

 そのとき私は、その美術館の絵がどれもこれも鋭い刃物で真一文字に切り裂かれて台無しになっていたので、その理由をずっと一人で考えていたところだった。
「ああ、お客様。その絵は耳で観(み)るのでございます」
 首をかしげていると私の背後で声がした。振り返ると、美術館の館長らしき老紳士がほほ笑んでいた。
「耳……ですか?」訝(いぶか)しげに聞き返すと、館長はスーツの襟を正して、そうでございますと穏やかに答えた。
「あの、一つお聞きしたいのですが、何故(なぜ)絵が全(すべ)て切り裂かれているのですか? 何かいたずらでも?」
「いえいえ、とんでもございません。この美術館に展示されている絵は、先程申し上げた通りすべて耳で観る絵でございます。なので、絵に刻まれた傷はそのためのものです。どうぞ、傷に顔を近づけて耳を澄ませてごらん下さい」
 はぁ、と私は気の抜けた声を出して草原の風景画であったらしい絵に耳を近づけてみた。
 するとどうしたことだろう。絵の傷の中から、僅(わず)かではあるが川のせせらぎや小鳥の鳴き声が響いてくるではないか。同時に、一瞬視界が揺らいだかと思うと、春の草原が目にありありと映った。
 まるで自分が別の世界に飛んでしまったような感覚を覚え、私は驚いて顔を絵から遠ざけた。途端に見えていた風景も音も霧散して、ほほ笑む館長が見えた。
「ご理解いただけましたでしょうか? 画家の強い意志が宿った絵は、切り裂くと中からその風景が溢(あふ)れ出すのです。まるで熟れた果実を切るとそこから果汁が溢れるように……贅沢(ぜいたく)な鑑賞でしょう?」
 私は驚きのあまり何も言えず、目を見張っていたが次第に興奮して、次から次へと絵の傷に耳を近づけていった。館長は私の他に客がいないせいか、私が観る一つ一つの絵に解説をしてくれた。
「これは十九世紀ヨーロッパの朝市の様子です」「中国、泰山の風景画です」「抽象画です。面白いでしょう?」
 どの絵もただ目で見るよりも鮮明に情景が流れてくるため感動的で、自然に絵の本質を感じることができた。私は日が暮れるまで夢中になって鑑賞し続けた。
 しかし、最後の天国を描いた絵で私は欲張り過ぎたらしい。切り口に顔を近づけ過ぎて、頭がすっぽりと絵に入ってしまい、抜けなくなってしまったのだ。
  「助けて」そう館長に助けを求めた。ところが、館長は愉快そうに笑うばかりで、「いっそ絵の中に住まれてはいかがでしょうか。可能でございます」とまで言い出す始末だ。
 だが待てよ。私は考え直した。これだけ美しい天国の絵の中で暮らせるならそれも悪くないかもしれない。
 そう思った私は、背後で館長の笑い声を感じながら。絵の傷の中に向かってゆっくりと体を沈めていった。
 まるで熟れた果実の傷から入り込む蟲(むし)のように。

[2009年6月29日掲載]

Alicekara_1 語り手が見ていた絵の中に入ってしまう、という物語はいくつも寄せられましたが、この作品は「音」に加え、触覚的なイメージも取り入れているところで他と異なりました。「熟れた果汁」のたとえが効いています。

'09年6月「がらんとした…」
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初恋

入選作品橋本 仁美さん 21歳(関西大政策創造学部3年)

■6月の書き出し
 がらんとした昼下がりの美術館で絵に見入っていると、不意に声をかけられた。

「へえ、そんなにその子がいいんだ」
 突然投げ掛けられた攻撃的なその言葉に、僕は思わずムッとした。
「誰のために、わざわざ有休とってやったと思ってるんだよ」
 僕はお前と違って忙しいんだぞ!と喉まで出かかったけど、そんなことを言えば後でうるさいのは目に見えている。僕はぐっとこらえた。
「その子じゃなくて私のこと見てよ」
 またくだらないことを言いはじめた。僕は目を逸らさずにそのまま無視した。だいたい、お前のために来てやってるんだぞ。ああ、この絵の女の子は静かでいいよなあ、と僕は思う。中世ヨーロッパあたりの貴族だろうか。女の子は、本来こういうおしとやかな生き物のはずだ。
「私とのデートなのに、他の女に鼻の下伸ばしちゃって」
 でも、女の子にも色々いるんだなあ!
「だから何だよ。お前ばっかり見てろって?」
「そうよ、悪い?」
 もともと、告白は向こうからだった。この美術館に足しげく通っていた僕を、彼女はいつも見ていてくれたらしい。僕は全く見られていたなんて気がつかなかったが、告白されて別段悪い気はしなかった。
「ねえ、私とその子どっちが可愛い?」
「知らん。ちょっと静かにしててくれ」
 そう言うと、彼女は急に黙ってしまった。ちょっと嫌な予感がしてちらりと目をやると、なんと泣いている。ったく、どこまでも世話のやけるやつだ。
 ハンカチを放ってやると、目元をぐしぐし拭った後に鼻までかんでいた。汚ねーな、返せ!と言うと、ぐしゃぐしゃに丸めたまま放り返してきた。さっきの泣き顔はどこへやら、今度はえへへ、と機嫌よく笑っている。この顔を見ると、どうも調子狂うんだよな。
「ありがとね」
 初め僕は彼女に対して、わがままな薄っぺらいやつだなという印象しかなかった。だけど、付き合ううちに色んな所が見えてきて…照れ臭いけど、意外な彼女の奥深さに惹かれてきたというか、そんな感じで今に至る。
 やっとかかった閉館を知らせる放送に、僕はやれやれとため息をついた。これでやっと帰れる。館内から出ようとすると、背中に彼女の声が響いてきた。

「ねー!! 明日も来てくれるよね?」
 僕は返事の代わりに、絵の具で汚れた汚いハンカチをひらひら振ってやった。

[2009年6月23日掲載]

Alicekara_1 女の子の正体をうまく隠しています。ぼんやり気がついた読者もいるかもしれませんが、さらりと種明かしをする最後の一文のうまさに感心するでしょう。「僕」が平然と不思議を受け入れている不思議さがいいですね。

'09年6月「がらんとした…」
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watchcat

入選作品住永 佳奈さん 20歳(京都大法学部3年)

■6月の書き出し
 がらんとした昼下がりの美術館で絵に見入っていると、不意に声をかけられた。

「にゃーお」

 あまりにも美術館に不似合いなその声に、私は床から何センチか飛び上がるほど驚いた。呼吸を整え、鼓動を鎮めてゆっくり振り向くと、案の定そこには一匹の小さな猫がいた。

 いくら閑散とした美術館でも、猫はまずい。まずすぎる。絵が傷付くかもしれないし、何より警備員がやって来でもしたら、私の目的は台無しだ。この猫には何とか平穏にお帰りいただかねばならない。私は慌てて抜き足差し足、猫を入り口へ追い立てるが、そんな私の手から猫はするりするりと抜けていく。猫が体をくねらせて歩くたびに、首もとの鈴がちりんちりんと乾いた音を立てた。

 みゃーん。ちりりん。すたすた。猫は踊る。全く捕まらない。いよいよまずい、と冷や汗をかき始めた時、私は、自分が猫を追い立てているようで実は自分が猫に誘われてある場所へと近づいていることに気付いた。視線を上げると、さっきまで気付かなかった小部屋がある。みゃーんと鳴きながら、猫は扉の隙間(すきま)からためらいなく中へ入っていった。反射的に続いて足を踏み入れると、そこには光の差す窓に顔を向けて、一人の老紳士が立っていた。
「おや、お客様ですか」

 そうですよ、とばかりに猫がゴロゴロ喉(のど)を鳴らす。
「私の絵はいかがでしたか?」

 この言葉で、私はようやくこの紳士が個展の主催者であることを知った。画家の名前も知らずに盗もうとしていたとは…自分の間抜けさに情けなくなる。
「ええ、素晴らしいものでした」

 ぐっと緊張をこらえここまで言い終えたところで、小心な私の中に突然復讐(ふくしゅう)の炎が燃え始めた。私の目的を少しくらい話しても差し支えあるまい。なに、猫に散々苦労させられた仕返しにちょっと脅かすだけだ。

 「素敵(すてき)でしたよ。思わず頂きたくなるくらいにね」

 紳士はふふふと面白そうに微笑(ほほえ)み、猫を抱き上げた。
「あなたのような愉快な人が、私の最初で最後の個展に来てくださってよかった。話に付き合っていただいたお礼に、ぜひともこの絵をあなたに」

 紳士の指さした先には、黒い大きな包みが一つ。これは願ってもないチャンスだ。私は紳士に軽く礼を述べた後、喜び勇んでそそくさと美術館から退散した。

 その夜、包みを開けてみると、中に紳士からの手紙が同封されていた。
「私の警備員は中々優秀でしょう。検挙率100%です。今まで色々な方と話をしましたが、あなたとのお話は非常に楽しかった。今日の記念に、一枚どうぞ。追伸。今後はよからぬ事を考えないように。」

 絵の中から、あの猫がこちらをじっと見つめていた。

[2009年6月15日掲載]

Alicekara_1 がらんとした昼下がりの美術館と小さな猫の取り合わせが魅力的。しかも、そいつは語り手をどこかへ誘導しようとする。この情景を描いただけでもお見事。ここはやはり番犬ではなく、watchcat(番猫?)でしょう。

'09年6月「がらんとした…」
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黒とか白とか

入選作品尾崎 孝さん 18歳(大阪府立大生命環境科学部1年)

■6月の書き出し
 がらんとした昼下がりの美術館で絵に見入っていると、不意に声をかけられた。

「その絵が、お好きですか?」
 振り返ると、銀髪の老紳士が穏やかな笑みを浮かべて立っている。なんだか見覚えのある顔だった。彼も私と同じく、ここの常連なのかもしれない。
「先程から、随分熱心に見ていらっしゃるようなので」
 私は何と答えたものか迷った。というのも、私はこの、今目の前にある絵が特に好きな訳ではないのだ。タイトルは『黒とか白とか』。黒い丸と白い丸が幾つも重なり合い、また縦横無尽に白い線と黒い線が引かれている。曖昧(あいまい)なタイトルが示す通り、何を描いているのか何を伝えたいのかさっぱり分からない。私はどちらかというとこんな抽象画よりも、分かりやすい写実的なものが好みなのだ。だが、実際のところ私は美術館にはこの絵を見るためだけに通っている。
「この絵は私にとってはお守りみたいなものでして」
 私が話し出すと、老紳士は興味深そうに「ほほう」と目を輝かせた。
「実は私は小説家なんです。昔、ひどいスランプに陥ってしまったことがありましてね。何も浮かばない何も書けないといったひどい状況でした。そんな時妻から『気晴らしに美術館にでも行ってきたら?』と勧められ、この絵を見つけたのです。最初は変な絵だなあとぼんやり眺めてたんですが、そのうち頭の中に小説のアイデアがぱっと浮かんできましてね。それからというもの、不調の時はこの絵を見に来るのです。そうすると不思議と面白い物語を思い付くんですよ」
 老紳士は一瞬戸惑ったように見えたが、すぐに大きく頷(うなず)き、にこやかに「それはこの絵が素晴らしいからですよ」と言い、『黒とか白とか』がいかに芸術作品として優れているかを熱っぽく語った。まるで恋する若者のように。彼は一通り話すと満足したのか、別の絵画の方に去っていった。

 おかしい。何かが違う……。老紳士と別れた後小一時間ほど絵の前で過ごしたのだが、全く何も浮かばない。こんなことは初めてだ。もう帰ろうかと思っていると、再び老紳士が現れた。
「どうです、なにかいいアイデアは浮かびましたか?」
「いやあ、今日は全然ですよ。まあ、所詮はジンクスの類ですしね」
「貴方(あなた)には申し訳ないことをしたと思っています」
「え?」
「貴方が今日見ていたのは偽物ですよ。本物は、今朝貴方が来る前に私がいただいちゃいました」
 そう言うと老紳士は、優雅な足取りで美術館を出ていった。……私はからかわれたのだろうか? それとも、彼は本当に……? 私の頭の中は、まるであの絵のように黒と白の疑いでいっぱいになっていた。

[2009年6月8日掲載]

Alicekara_1 小説のアイデアを授けてくれる抽象画。こんな絵が実在するなら、私も作中の美術館に通いたい。罪なことをする老紳士の正体は何なのでしょうね。割り切れない思いが残りますが、それは解けない謎なのでしょう。

'09年6月「がらんとした…」
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面白いもの

入選作品澁谷佳那さん 21歳(神戸女学院大音楽学部4年)

■6月の書き出し
 がらんとした昼下がりの美術館で絵に見入っていると、不意に声をかけられた。

「面白い?」
 振り向くと、7~8歳だろうか、くりくりとした瞳と三つ編みに編んだ黒髪が愛らしい少女が立っていた。どこかで見かけたような気もする。
 だが、いつのまにここに来たのだろうか。さっきまで誰もいなかったはずなのだが…。
「君、どこの子? お母さんは?」
「お母さんならあっちにいるよ。私、ここの子なの」
 なるほど。ここの関係者の子供なのだろう。
「ねぇそれより、絵って面白いものなの? ここに来る人ってみんなじーっと見てるんだもん」
「面白い…か。うん、面白いよ。君は絵は好きじゃないのかい?」
「嫌いじゃないけど…。ねぇ、それよりもっと面白いもの見せてあげるよ。こっちおいで!」
 その言葉に好奇心を刺激された私は、少女に招かれるままに美術館の奥へと進んでいった。

 この美術館は一体どんな構造になっているのだろう。外観を見たときはそんなに広くないだろうと思っていたのだが、いくつも部屋を通り過ぎ、長い廊下を歩いて、かなり奥まで来た。
「このドアの向こうがね、私のお部屋なの」
 私は少女に促されるままに部屋に入った。そこは、どこかで見たことのある空間だった。ただ一つ違うのは、正面に大きな窓があり、光が差し込んでいる。
「この窓からね、面白いものが見れるの」
 その大きな窓から見えたのは、さっきまで私がいた美術館のフロアと、こちらをじっと見つめる人の顔だった。
「これってまさか…」
 少女のほうを見ると、少女は椅子に腰掛け、ぴくりとも動かなかった。

「この、少女と男の絵はなかなか面白いですな。特に男の表情が素晴らしい」
「でしょう? でも、もっと面白いものを見たいとは思いませんか?」
「ほう、何ですかね?」
「ご案内しましょう、こちらへいらして下さいな…」

[2009年6月1日掲載]

Alicekara_1 語り手が絵の中に入ってしまうお話はいくつかありました。この作品は、絵に入る<手続き>がシンプルでスマート。「この美術館は一体どんな構造になっているのだろう」の一文だけで不思議を完成させてくれました。

'09年6月「がらんとした…」
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