長い夜

Kasaku2_4辻 健太さん 22歳(東京大教育学部4年)

8月の書き出し
 見張り番が「くるぞ!」と叫んだ。とうとうこの時がやってきたのだ。もっとも、彼の声を聞くまでもなく、僕らはそれを自分の身体(からだ)でひしひしと感じていた。
 ねずみなどは大地震が起こりそうになるとそれを予知して住処(すみか)を離れるという。大地震は人間にとっても脅威だが、ねずみにとってはそれ以上に脅威的に感じられるのだろう。それが「圧倒的な脅威」であるからこそ、予知が可能になるのだ。そして今、僕たち人間ですら感じとることのできる「圧倒的な脅威」が迫っている。大地震をも凌駕(りょうが)する、地球規模の何かが。
見張り番は扉に厳重な鍵をかけ、僕たちに合流した。
   本当は、彼のことを見張り番と呼ぶのは正確ではないだろう。僕らには見張るべきものなどないのだから。わかっているのは、確実に迫りくる恐怖。それだけだ。そして、それを感じとり、このシェルターに逃げ込んでくる人々を時間ぎりぎりまで迎え入れるのが見張り番と呼ばれる彼の役目だった。
   シェルターの中は静寂と狂乱が入り乱れていた。数珠を握った老婆がひたすら「なんまいだぶ」と叫び、眉毛(まゆげ)のない不良少年ですら恐怖に震えた。泣き喚(わめ)く赤ん坊を、母親はあやそうともしない。その静寂と狂乱はオセロゲームのように次々と伝播(でんぱ)していった。
 しかし、次の瞬間、皆が声をひそめ、耳を澄ました。始まったのだ。まずは地響き。その音はどんどんボリュームを上げていく。次第にまた狂乱の声が聞こえ始めた。その一方で僕はただただ震えている。
 と、身体が、ふわりと宙に浮かんだ。重力に逆らっているのではなく、そもそも重力が無くなったようだ。シェルター内の混乱がピークに達する。外ではいったい何が起こっているというのか。状況を何も理解できないまま、いつしか僕の意識は薄れていった――

 どれぐらい気絶していたのかわからないが、僕は意識を取り戻した。まだ、生きていた。地響きはもう聞こえないし、身体は床に落ちている。終わったのか?
シェルターの入り口に向かうと、見張り番が扉に耳を押し当てて外の様子をうかがっていた。
彼は「大丈夫だ」と呟(つぶや)くと、扉を開けた。冷たい空気が流れ込んでくるのと入れ違いに、僕らは外に出る。
 そこには、あるべきものは何もなかった。家はおろか、町そのものが姿を消していた。あるのは地面と、雲ひとつ無い星空だけ。見張り番は言う。
「でも、助かったんだな。朝が来たら、動き出そう」
   星座に疎(うと)い人は、星空を見たって何もわからない。地球がひっくり返ったって、宇宙がひっくり返ったって、地球がどこかに飛んでいったって、気付かない。
 僕は気付いた。そこには、あるべきものは何もなかった。北の夜空に輝くべき、北極星も。
「……朝が、来なかったら?」
 僕の問いかけに、見張り番は「まさか」と笑った。

'09年8月「見張り番が「くるぞ!」…」
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地獄の花婿レース

Kasaku2_4山田 那名江さん 23歳(市職員)

8月の書き出し
 見張り番が「くるぞ!」と叫んだ。とうとうこの時がやってきたのだ。幼い頃から父に聞かされていた、「地獄の花婿レース」が、始まってしまった。
 「地獄の花婿レース」は、日本男児が二十歳になるとみな参加しなければならない。地方自治体によって違うが、基本は成人式の次の日に行われる。簡単にいってしまうと、特殊な機械を使ってバーチャル世界に入り、そこで自分がもっとも苦手とするものと戦うのだ。制限時間内に戦って勝つも良し、ひたすら逃げるも良し。実際あまり戦う人はおらず、もっぱら逃走レースと化している。そしてこのレースはすべて点数化され、その得点順に自分の好きな花嫁を選ぶことが出来る。もちろん女の子の方には辞退権があるから、男の一方的な押しつけにはならない。ただ、女の子に辞退されると来年同じレースをもう一度受けなければならない。人生とは、過酷なものである。
  パーン!と合図が大きく響き、まわりの男どもが一斉に逃げだす。戦おうというやつがいないというのは、なんともはや情けないが、自分自身足をせっせと前へ運んでいるのだから、人のことは言えない。背後からアレが僕を追ってきているはずだ。世界で一番恐ろしい、アレが。
   「うわっ」という声をあげて隣の男がつまづいて転んでしまった。人の心配をしている場合ではないのに、大丈夫かな、とつい思ってしまう。逃げ続けていると、後ろから、絶叫する声が聞こえた。さっき転んだ男に違いない。振り返ると、巨大なクモがその男に覆いかぶさっていた。なおも男の悲鳴は続く。そして、ピタリと悲鳴は止まり、男は巨大なクモと共に消えていった。バーチャル世界から現実に帰っていったのだ。「あいつビリだぜ」と誰かがあざけるように言ったが、その声はやや震えていた。次は自分かもしれない、そんな不安を抱いてみんな一心不乱に逃げまくる。それにしても、人の苦手なものとは、なんだかおもしろい。さっき振り返ったとき見えたものの中には、巨大お化けや巨大なナマズがせっせと対象者を追いかけていた。中でも巨大なクマのぬいぐるみがあったのがおかしい。なにか嫌な思い出でもあるのだろうか。そんなものから大の大人の男が真剣に逃げているのだから、第三者が見たらかなり笑えるだろう。それでも、恥も外聞もなく男たちは走り続ける。
 始まってどれぐらいたつのだろう。息があがって、足元がふらついてきた。気づけば、靴紐(くつひも)がほどけている。やばい。座って結び直している時間はないだろう。アレがすぐそこまで来ている。しかし、アッと思った瞬間、僕は靴紐を踏んづけて派手に転倒していた。転んだ衝撃で膝(ひざ)や手のひらがジーンと痛む。痛がっている場合ではない。アレが、アレが、近づいてくる! 立ち上がろうとするが、膝が笑ってうまく立てない。振り返ると、アレがすぐ目の前までせまっていた。僕は腰を抜かし、そこにへたり込んだ。ものすごい形相で近づいてくる、世界で一番恐ろしいもの。それは、まぎれもない、僕の母親だ。

'09年8月「見張り番が「くるぞ!」…」
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最後のおくりもの

入選作品山本 健太郎さん 18歳 (大阪府立四條畷高校3年)

■8月の書き出し
 見張り番が「くるぞ!」と叫んだ。とうとうこの時がやってきたのだ。


 その声とともに、地下の穴倉から一斉に子どもたちが飛び出した。

 外の世界には何も無い。ただ真っ白な地面が夜空の黒と交わるところまで延々と拡(ひろ)がっているだけだ。

 いつもは暗闇に覆われているこの世界だが、今日この時だけは違う。ぼんやりと浮かぶ金色の月から一筋の光がこの地上に向かっていた。

 それは「月からのおくりもの」と呼ばれている。この見捨てられた世界に、年に一度だけもたらされる希望の光。子どもたちはその光に向かって一心不乱に駆けているのだ。

 光の着地点には巨大なクレーターが形成され、その中心には全長二メートルほどの卵形カプセルが埋もれていた。
  「何だろうね?」
  「何だろう?」
  「行ってみようよ」
  「行ってみよう」
  十数人の少年少女たちは恐る恐る近づいていった。

 年長の少年が手を伸ばし、カプセルに触れようとすると、それは唐突にふるえはじめた。

 子どもたちが驚いて飛び退(さが)ると、カプセルが上下方向に開き、中から銀色の顔がひょっこりあらわれた。
  「ロボットさんだ。ロボットさんだよ」
   一人の少女が叫ぶと、ロボットは子どもたちに向かって軽く会釈して見せた。それに安心したのか、子どもたちはそのロボットに駆け寄っていく。
  「見てみろよ。このカプセルの中、白黒だ」
  「ほんとだ。しましまだ」
  「これはピアノの鍵盤だよ」
   銀色のロボットは子どもたちの声にうなずく。

 確かにカプセルの中には、壁の曲線に沿って鍵盤が並んでいた。

 ロボットピアニストは機械の指をなめらかに滑らせて、流れるような旋律を奏でた。それと同時、騒いでいた子どもたちはピタリと動きを止め、その音に聞き入った。

 やがて、その暖かな旋律はこの淋(さび)しい世界を覆い、見捨てられた子どもたちを安らかな眠りへといざなっていった。

 そして、誰もいなくなった世界で、一人優しい音楽を奏で続けるロボットだけが、おぼろげな月の光に照らされていた。

[2009年8月31日掲載]

Alicekara_18月の締めは、ロマンティックなSFです。いや、ファンタジー? おとぎ話? そんなことは、どうでもいい。美しい雫のような小説です。これが子供たちに贈られた「最後」のおくりものだとしたら、哀しいですね。

'09年8月「見張り番が「くるぞ!」…」
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熱い闇

入選作品觜本 あかねさん 23歳 (関西学院大文学部4年)

■8月の書き出し
 見張り番が「くるぞ!」と叫んだ。とうとうこの時がやってきたのだ。
僕はたまらなくなって、彼を抱き締めた。その身体は、燃えるように熱かった。
 思い返すと、彼はいつの間にか僕の目の前に現れた。
「俺のことは見張り番と呼んでくれ」
 僕はミハリバン、と口の中で復唱した。
「見張りって、何の」
「時が来れば嫌でもわかる」
 見張り番は真剣な表情でそう言うと、僕の傍にどっかりと座りこんだ。変わった奴だ、と思ったが、面倒くさそうなので何も言わなかった。邪魔にならなければ、それでいい。
 見張り番は、極端に睡眠時間の少ない奴だった。獣のように丸まって眠り、起きている時は、いつも虚空にじっと目を凝らしていた。
 ある晩のことだった。僕は獣の唸り声で目が覚めた。ひどく怯えたような、恐ろしいけれど寂しい声だ。僕は闇に問いかけた。
「見張り番?」
「見える、近づいてきているぞ……!」
 彼が闇の中で吼えた。
「身を隠せ、やられるぞ!」
 僕は言われた通りに身を縮めていたが、やがて眠くなり、寝てしまった。朝が来て目を覚ますと、見張り番は僕に語ってくれた。
「見たか。あれはな、毎晩少しずつ近づいてくる。あれに捕らわれたら、そこでおしまいだ。気を付けろ」
 意味不明。でも彼にとってあれは確かに存在し、彼を脅かすものなのだと、理屈ではなく解った。僕はただ、頷くしかなかった。
 ……あれに捕らわれたとき、彼はどうなるのだろう。嫌な予感が、ふっと胸をよぎった。
 彼が唸りをあげる間隔は、毎日少しずつ短くなってきていた。そしてついに、彼はいつもと違う叫びをあげたのだ。
「くるぞ! ついに来た!」
 彼が喚きながら暴れまわる。僕は彼を抱き締めることしかできない。彼の恐れを分かち合うことはできないのだ。
 彼はもはや言葉ではない何かを叫ぶと、僕の腕を引掻き、振り切って、どこかへ走り去ってしまった。帰ってくるかと思ったが、未だその気配はない。
「見張り番……」
 腕に残ったのは、獣の引掻き傷のような生々しい赤い痕。彼の身体の熱さを思い出す度に、僕は今でも切なくなる。

[2009年8月24日掲載]

Alicekara_1何がカッコいいって、タイトルです。物語の核心を射抜いています。応募者の皆さん、このセンスを見習って。内容も素晴らしいのは言うまでもありません。やってきたものを描かず、不安と恐怖だけを伝えてくれました。

'09年8月「見張り番が「くるぞ!」…」
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根付くもの

入選作品板山 彩実さん 18歳 (同志社大法学部1年)

■8月の書き出し
 見張り番が「くるぞ!」と叫んだ。とうとうこの時がやってきたのだ。
しゃがみ込んで低くなった視線の先には、闇に浮かぶ小さな丸があった。
 朝日が昇る寸前の今の時間は、夜の暗さが最も濃くなる。隣にいる二人の顔も分からない程の暗さなのに、不思議とその白い小さな丸だけはくっきりと見えた。固唾をのんで見守っていた二人が、じれたように身じろぎをする。その瞬間。
 白い丸が一瞬ふるっと揺れた。その輪郭がぶるぶると細かく震え始める。そして空に一番近い頂点から、ゆっくりと丸の外枠が剥落していく。ふわりと、花開く。それを見て、思い切り息を吸い込んだ。
「開花したぞー!」
 先に隣の奴に言われてしまった。がっかりしている間にも白いつぼみはほどけていく。花弁が蝶の羽化する時のようにしわをのばし、大きく開いていく。中心の黄色が現れたころに、あることに気が付いて、今度こそと息をまた吸い込んだ。
「あっ、他のも咲いてってる!」今度は女の子にとられてしまった。
 白が5枚の花弁を広げきった時、その隣の赤い丸が崩れていった。赤の次はその上の青。藍、紅、深紅、桃、紫苑。カラフルな丸が次々に崩れていく。その光景に見惚れていると、いきなり肩を抱かれた。
「咲いたぞ!」「咲いたよ!」
 まだ呆然としていたら、力いっぱい頭をはたかれた。ようやく頭が回り出す。
「この汚染された土に花咲かせるなんて俺天才だな」
「なによ、根付くように改良したのあたしでしょ!」
「もともとのアイデア考えたの俺だけど……」
 そもそも俺がここにいるのだって、何気なく思いついたこれを人に話してみたからだ。この汚染された環境で自然に植物を根付かせることは、生態系の維持に大いなる役に立つらしい。この二人も環境のために必死で手伝ってくれた。
「うるさい」「うるさい」でも、俺に敬意は払わない。
 いじけてしゃがみ込むと、目の前に一番に咲いた白い花があった。ふと本当に根付いているのか不安になって、引っこ抜いてみる。
 めりめりと音をたてて、根元の土が盛り上がる。更に引くとぼろぼろと泥の塊が落ち、黒い糸状のものが現れた。持ち上げて、まじまじと改めて根っこを見つめた。
 脂が浮き上がったほおの上にも額の上にも、白い根がびっしりと這っていた。ゼリーのような眼球にもカッと開かれた口腔内、その闇の中でぬめる舌にもからみつく。顔の中心は長く長く伸びて、肌色から濃い緑へと変わっている。そのてっぺんには艶やかに美しい純白の花が咲いていた。肥料になった人の髪からは、かすかに整髪料の人工的な花の香がした。

[2009年8月17日掲載]

Alicekara_1見張り番が待っていたのは、ある植物の開花。。どうしてそんなものを大勢で待っていたかというと…。それこそ花弁が一枚ずつ開くように物語は進み、舞台が明かされ、衝撃の結末に至ります。構成の妙にひかれました。
 

'09年8月「見張り番が「くるぞ!」…」
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トカゲの息子

入選作品戸澤 香織さん 12歳 (奈良市立富雄中学1年)

■8月の書き出し
 見張り番が「くるぞ!」と叫んだ。とうとうこの時がやってきたのだ。

 コツ、コツ、と足音が近づいてきた。ガラッ、という音とともに、教室のドアが開き、国語の先生が入ってきた。いつ見ても、この先生は不思議な雰囲気がする。半魚人のような顔に、異様に長い手足。怒ったら頬がパックリ割れて、鰓のようなものができる。それがあまりにも人間離れしていて、生徒たちには恐れられると同時に、嫌われていた。
 先生が教卓の前に立った。
「皆さんも知っての通り、私は今日でこの学校を、この星を去ります」
 俺は笑いをかみ殺した。この星をさります、って規模がでかすぎるだろう!
「なので、最後にあなたたちに知っておいてほしい短いお話があります。私しか知らない火星人のお話で、ノンフィクションです。では、お話しましょう」
 隣の席の子にちょっかいをかけてやろうとしたら、よだれを垂らして爆睡していた。つまんねーの。
「ある一人の火星人が、何百年という月日をかけて、地球にやって来ました」
 俺は欠伸をした。さっきから欠伸が止まらない。
「その火星人が地球に来た理由は、二つありました。一つは学び舎、つまり学校とは何かを調べるため。もう一つは、火星と木星が戦争をしたときに、地球に避難したきり戻ってこない息子を探すためでした。
 その火星人は地球人を見て、とても驚きました。地球人は手足が短すぎる! 他にも驚いたことがたくさんありました。
 火星人もだんだん地球に慣れてきて、中学校の国語の教師になりました。学校とはどういう所か調べられる、好都合な職業でした。そして幸運なことに、このクラスで授業をして、息子の居場所も分かりました。説明文『トカゲの尻尾』の勉強をしたときです。息子は―」
 先生の指先が俺を指した。みんなが振り返って俺の顔を見る。半分くらいしか話を聞いていなかったが、今どういう話になっているかはなんとなく分かる。とにかくいい話ではない。
「俺じゃないよ」と俺は急いで否定した。
「誰もあなただなんて言っていません。あなたが飼っているトカゲが私の息子です」
 先生が涼しく微笑んだ。

[2009年8月10日掲載]

Alicekara_1「とうとうこの時が」という場面ではないな、と思いながら読んでいて、途中で噴き出してしまいました。にらめっこではありませんが、私の負けです。小説で笑わせるのは、とても難しいから。緩急と言葉の選び方がうまい。
 

'09年8月「見張り番が「くるぞ!」…」
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扉の外

入選作品芳田 直征さん 20歳 (徳島大工学部2年)

■8月の書き出し
 見張り番が「くるぞ!」と叫んだ。とうとうこの時がやってきたのだ。

「あと数刻で夜がくる。闇に呑まれる前に至急地下に潜られよ。一度閉めた扉は次の夜明けまで開かぬ故に」
 町の中心から外れた清流で水と戯れていた私と彼は、見張り番の声に一度動きを止め、燦燦と煌めく夕日以外何もない空を仰いだ。
「そろそろ行こうか? 置いてかれちゃ敵わないよ」
 水から上がったそこは焼けるような熱さではあるが、冷えた足には心地好い。細かい砂を踏みながら振り返ると、彼は瞼を閉じ思案顔で腕を組んだまま佇んでいた。
「おーい。聞こえてる?」
 流水に膝まで浸して、彼の腕を引っ張ってみるが表情は変わらない。生まれて此の方初めてやって来る『夜』に思いを馳せているのか、と考えていると不意に彼の口が動いた。
「僕はこっちに残ろうかと思うんだ」
「……?」
 一瞬彼が何を云っているのかわからなかった。こっちに残る? そんな事をしたら、扉が閉ざされてもう会えなくなる。いやそれより、夜は闇の世界だという。人の生きられる所ではない。
「それは……駄目だよ」
 一緒に行こうと彼の手を取ったけれど、やんわりと一足距離を置かれた。
「僕はね、皆が恐れている夜って奴を、いや、とある先人が美しいと記した星をこの眼で見たいんだよ」
 西陽に僅か眼を細め、羨望を以て空を眺めている。
『夜に出会えば生きては戻れぬ。何人足りとも触れてはならぬ禁忌がそこにはある』古くから伝わる噺だが果たして禁忌を破る意味があるというのだろうか。
「君は見たいと思った事ない? 何世代か前の人達なら知っていたんだ。それがどうしてだか秘密にされた。だから尚更僕は興をそそられるわけだけど」
「それだけの価値があるの?」
 彼は無言だったが、しなやかに微笑んだ彼の顔を見るだけで充分だった。
「うはぁ……すごい。すごいよ、これ。きれいだなぁ」
 閉ざされた扉に凭れ、初めての夜の闇に包まれ、その美しさに歓喜の声を上げた。
 天球の隅々に至るまで散りばめられた玉が白く紅く青く儚く。かつて見たどんなものとも違う光が視界を覆い、世俗とは一線を画した夢幻の如し世界が拡がる。
 思わず溜息が漏れた。
 再び扉が開く時まで、自分達の命はもたないだろう。それでも悔いのない程の静寂の中に冷えた風が吹く。空の輝きに腕を伸ばすと、指の隙間から星が流れて落ちてゆくのが見えた。

[2009年8月3日掲載]

Alicekara_1誰も経験したことのないもの――初めての夜がくる。アシモフのSFにもあるアイディアですが、まったく別の物語になっています。未知への恐れと憧れを、若々しい感覚で描いてくれました。まるで夏の夜の夢です。
 

'09年8月「見張り番が「くるぞ!」…」
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