蝉坊主

Nyusen2永田悠史さん 20歳
(尾道大芸術文化学部3年)


■7月の書き出し
  蝉しぐれの道を歩いているうちに、ふうっと意識が遠くなった。倒れそうになり、ふんばる。林の中の日差しは弱いけれど、その分だけ蒸し暑かった。胸もとが汗ばんできて、ワンピースがべたべたと肌に張り付いてくる。
  虫かごの中には蝉が三匹。慣れない虫取りは、男子みたいに上手くはいかない。カブトムシとか、クワガタなんかも取れればよかったんだけど。
  じっとしていると蝉しぐれが大きくなってくる。もうひと頑張り、と重たくなってきた虫取り網を握り直した。
「お前さん、そこで何をしてるんだい」
  後ろから声がして振り向くと、笠を被ったお坊さんが立っていた。この暑さの中、黒い衣を着込んでいる。昆虫採集です、とわたしは正直に答えた。
「そいつらをどうするんだい」
  肩からさげた虫かごを指さして、お坊さんは言った。低音で、蝉しぐれの中でもよく響く声だった。
  昆虫採集なんだから、ピンで固定して標本にするつもりだった。けれど、お坊さんに怒られるような気がして言えなかった。
「お前さんは、かごの中に入ったことはあるのかい」
  言いながら、お坊さんが近寄ってくる。深く被った笠のせいで顔はわからなかったけれど、その声はもっと低くなっていた。

 蝉しぐれがやけに大きく聞こえてきて、うるさい。だんだん呼吸が荒くなってきて、なんとか首を横に振って答えた。
「じゃあ、どうしてかごに入れる」
 肩に手がかかる。びくりと思わず体が跳ねたけれど、お坊さんの顔を見上げることはできなかった。わたしはぎゅっと目を閉じた。
「なあ、どうしてなんだ」
     
 目を開くと、わたしは木の根に座り込んでいた。あんなにうるさかった蝉しぐれがやんでいて、風にそよぐ枝の音だけが聞こえた。お坊さんはもういない。
 虫かごの中には蝉が三匹。けれど三匹とも鳴かず、お腹を上にして動かなくなっていた。
 のろのろと立ち上がって顔を上げると、目の前の木の幹に何か黒いものがへばりついていた。大きな蝉のぬけがらだった。
 また蝉しぐれが聞こえてくる。辺りの木の隙間からも、頭上の枝からも。蝉しぐれがわたしを取り囲んでいる。その中で特に低音で響く声が、だんだんと近付いてくる。
「なあ、どうしてなんだ」
 震える指で虫かごの蓋をこじ開け、蝉の死骸を落とした。低音の声はすぐそこまで迫ってきていて、わたしは弾かれたように逃げ出した。

[2007年7月30日掲載]



Alicekara_1
 不意に「お前さん」と呼ばれ、からまれるのは怖い。まして、こんな得体の知れないものに詰問されたりしたら。こけおどしのない淡々とした筆致のおかげで不気味さが増し、暑気を払う怪談になっています。

'07年7月「蝉しぐれの道を歩いているうちに…
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紙ヒコウキ

Nyusen2河野奈津美さん 18歳
(大阪府立三島高校3年)


■7月の書き出し
  蝉しぐれの道を歩いているうちに、ふうっと意識が遠くなった。倒れそうになり、ふんばる。学校帰り、俺は家までの長い上り坂を自転車に寄りかかるようにしながら歩いていた。
「あっちぃー……」
こんなの呟(つぶや)いたってどうにもならない。頭上から照り付ける太陽にじりじり焼かれ、これ以上歩けないと思い、近くの木陰で自転車を止めた。
  温くなったペットボトルのお茶を飲み干して、家までの距離に「はぁー」とため息をつく。すると、それと同時に白い何かが視界の端を横切った。
「……?」
紙ヒコウキだ。きれいに折られたそれは、すぅっと俺の足元へおりた。誰が飛ばしたのか、拾い上げて周りを見渡すが、近くには誰もいない。ガキのいたずらか?と考えながら、目に入りそうになる汗を拭(ぬぐ)っていると、また同じものが視界を横切った。一体どこから? そうしているうちに、近くの草むらにまったく同じものがかなりの数刺さっているのに気付いた。上ってきた時はそんなもの一つも無かった……いや、気付かなかっただけか?
(いたずら……だよな)
そう考えて自転車にまたがる。気味が悪い。こんなに暑いのに何故か背筋には寒さを感じた。早くここから去ろうとペダルに足をかけたその時、背中がチクッと痛んだ。気のせい気のせい……と半ば祈りながら後ろに視線をやると、足元には三つ目の紙ヒコウキ。不気味なのは三つとも、まるで吸い寄せられているかのように俺の足元へおりてくることだ。遊びもいい加減にしろよ、と少し顔を引きつらせながら、ふっと視線を上げると、
「……!?」
振り返った景色が白かったのだ! あんなのは見たことが無い。どうやって飛ばしたのか分からないくらいの紙ヒコウキが、一斉にこちらに向かって飛んできていた。逃げなければ、と俺は地面を蹴(け)ってこぎ出した。
  追いついたヒコウキたちは次々抜かしては視界を白く、狭くしていく。全力でこいでいるはずなのに、流れる景色が白いせいか、進んでいるのかも分からない。足がだんだんだるくなってきた。
(もう無理……)
そう思った瞬間、すぅっと体が軽くなり、風を切った……そんな気がした。
  しかしそれはほんの一瞬だった。気付けば無意識に息を止めていたらしい。苦しくなって、ふーっと息を吐き出した。すると、今まで遠ざかっていた蝉の声や、照り付ける日差しの暑さが戻ってきた。それに加えて、頬に焼けるような感覚……目を開けるとそこには横倒しになった世界が広がっていた。
  俺は倒れていた……?

[2007年7月23日掲載]



Alicekara_1
 「振り返った景色が白かったのだ!」の箇所で、はっとしました。一気に小説が走りだした感じです。美しくてスリリング。最後の文章は少しあっけない。欲ばって、もう一度はっとさせてもらいたかった。

'07年7月「蝉しぐれの道を歩いているうちに…
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選考を終えて(7月)

 108編もの応募作が寄せられました。ありがとうございます。全部楽しく拝読しましたが、そこから数編しかご紹介できないのがつらいところ。お察しください。

 今回は、難易度が高かったのかもしれませんね。いかにも「小説らしい小説」の書き出しでしたから。応募数のわりに同傾向のものが多く、作品にバラエティが乏しかったように感じました。ナンセンス、時代劇、メルヘン風などはあまりなかった。色々な料理の仕方があると思っていたので、意外でした。

 「幻惑」は、非現実的なイメージを手堅い文章で描いています。やや手堅すぎるので、どこかで無茶をして欲しかった気がするほど。漢字の多用は意図してのことでしょうが、もっと徹底させるなどして、文字遣いでインパクトを出す手もありましたよ。

 「とのさまブーム」は、たかがカエル(失礼)の語り口がやたら高慢なのが面白い。我輩はとのさまである、ですね。「帰してもらわねば困る」「いささかショックである!」が特にナイス。饒舌体なのはいいのですが、もっと改行してもらいたかった。

 「ある夏の日、ある人が」は、不思議の物語ではままあるモチーフが登場しますが、「おかしいでしょ、私なんかが」と、給油所という言葉が気に入りました。ラストの述懐は理解できるものの、より説得力のある文章があるようにも思います(ハイレベルの要求ですね)。

'07年7月「蝉しぐれの道を歩いているうちに…
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ある夏の日、ある人が

Kasaku2_4 芦田 恵さん 19
(京都大文学部2年)


■7月の書き出し
 蝉しぐれの道を歩いているうちに、ふうっと意識が遠くなった。倒れそうになり、ふんばる。
さえぎる物のない丘の上の一本道では暑さにやられてもしかたがない。それに歩きつづけてもう三時間にはなる。振り向くと町がふもとに小さく見えた。
 割り切れない思いがふと胸の内に湧き上がってきたのは今日の午前十一時過ぎごろだった。決まりきった冷たく硬い日常では決して見つけることの出来ない、柔らかい、ぬくもりのある何かがほしかった。
 そんな衝動に突き動かされて家を飛び出したのが正午のことだった。
 熱に乾ききった手を額にかざす。真っ直ぐ空を見つめる。ここは小高い丘の頂上近く。顔を上げなくても高い空と輝く白い雲が目に焼きつく。
「こんな風に空を見たのは初めてだな……」
頭がくらくらするし、身体にあまり力が残っていない。それでも思わず呟くほどに夏の空は美しかった。何故僕はこんなに感動しているのだろう。そこに一本道の先から坂を下ってくる女の姿があった。頭には麦わら帽子、首には白いタオルをかけ、小脇に画板を抱えている。その女は人懐っこい笑みを浮かべて「今日は」と手を振った。僕も挨拶を返した。
「写生ですか?」
「おかしいでしょ、私なんかが。でもあんまりいいお天気だから」
 その時また意識が遠のいた。今度は耐えきれずにひざをついてしまう。女が駆け寄ってきて抱き起こしてくれる。僕は、自分の体力が限界であることを訴えた。
すると、
「この丘を越えたところに古いけど給油所があるわ。そこまで頑張りましょ……ええと、SV‐31099さん」
と、女は僕のプラスチック製の胸に刻まれた製造番号を見ながら言った。
「ありがとうございます」
彼女のやはりプラスチック製の半透明の腕にすがり、僕はゆっくりと歩き出した。ほのかに油絵の具の匂いがする。青い空と白い雲の匂い。この人も僕と同じなんだな、と朦朧(もうろう)とする頭で考えた。もう心配しなくていいのだ。給油さえすればロボットの身体は元通りになる。
 女が言った給油所は確かに古ぼけていた。それでも気が抜けたのか給油所の目の前で僕は完全に気を失った。途切れていく意識の中、蝉の美しい合唱が絶え入る中でぼんやりと思った。給油されて身体は戻っても、今度目覚めた時僕の意識も果たしてロボットでいられるだろうか。この詩のような真夏の昼下がり、耳に迫る蝉のコーラス。写生する女との出会い。これでは変わらずにはいられないじゃないか。

'07年7月「蝉しぐれの道を歩いているうちに…
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とのさまブーム

Kasaku2_4 前川 隆史さん 22
(大学4年、大阪府)


■7月の書き出し

 蝉しぐれの道を歩いているうちに、ふうっと意識が遠くなった。倒れそうになり、ふんばる。
明らかに足取りは重くなっていた。容赦の無い8月の太陽は、確実に彼の体力を奪っていた。ここでの意識の喪失は、命に関わる危険すらある。彼はそれを理解していた。それだけに、必死だった。もうどのくらい歩いたのだろうか。彼には途方もない時間が過ぎたようにも感じられた。とにかく、今は早く水を飲みたい。喉がカラカラだ。肌もひりひりする。体が悲鳴をあげているのがはっきりとわかる。そして何より、代わり映えのしない景色が疲労感をより一層駆り立てていた。

 「あと少し……あと少し……」懸命に自分に言い聞かせるも、あと少しなどという保障はどこにもない。そもそもこちらの方向であっているのだろうか? いや、考えるな! 合っている!……というか合っていてもらわないと困る。もう限界が近い。諦めそうになる自分を必死で鼓舞する。「お前はこんなところで終わるような奴なのか!」普段はさして気にもしない蝉がこんなにも疎ましく感じるのは初めてだ。こんなことになったのも、あの「カズキくん」とかいう坊主頭の小僧のせいである。お母さんに反対されたからと言って、我輩を飼うことをいとも簡単に諦めるとは……。いや、我輩も誇り高きトノサマガエルとして、飼いならされるのは御免こうむるが、もうちょっと、この、食い下がってもらわねば、まるで我輩に魅力がないみたいではないか。それでは我輩の面目が丸つぶれである。大体、田んぼから突然引き上げられて、訳のわからぬ人間のねぐらに連れ込まれた挙句に「帰してきなさい」である。迷惑極まりない!
  まぁ、それはさておき、田んぼに帰すなら帰すでも、きちんと帰してもらわねば困る。田んぼの手前の溝に落とすとは何事か! しかも、「気持ち悪くて触れない」だと! 失礼にも程がある! 飼いたいのではなかったのか!! 気持ち悪いだなんて、いささかショックである!
 とまぁ、そのようなわけで我輩は溝から引き上げてもらうことも叶(かな)わず、この溝の道を水辺へと歩いているのである。季節は真夏。ただでさえ、我輩は無神経な哺乳類などとは違うデリケートな両生類なのに、この暑さはたまらない。一歩一歩が辛くなってきた。もう限界である。少し、休息をとろう。しかし、気になるのは先程から、我輩を見つめてる野球帽の少年である。妙にきらきらした目でこちらを見ているが、我輩の姿に見とれたのであろうか。まぁ、我輩はここら界隈(かいわい)の田んぼでは屈指の色男である。いや、周りがそう言って止まないのだぞ、思い込みではない。故に少年が憧れる気持ちもわからんではない。少年とは古今東西かっこいい大人に憧れるものである。かく言う我輩も、幼い頃は……。おや? もう一人少年がやってきたようである。何か叫んでおるな。
 「おーい、ユウキくーん、このバケツに入るかなぁ?」

'07年7月「蝉しぐれの道を歩いているうちに…
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幻惑

Kasaku2_4 荒川 季美江さん 20
(中央大法学部3年)


■7月の書き出し

 蝉しぐれの道を歩いているうちに、ふうっと意識が遠くなった。倒れそうになり、ふんばる。
容赦ない陽光は意識どころか記憶まで焼き尽くしてしまうのだろうか、僕は何故自分が此処に居るのかを見失っていた。そもそも、此処は何処だ? 見回せど、両脇を石壁に固められた一本道が続いているだけだ。
  ゆらり揺蕩(たゆた)う視界の先に、その時、一つの人影が浮かび上がった。朧(おぼろ)げなそれは酷(ひど)く頼りない立ち姿をしている。さてはあれが蜃気楼という代物だろうか。僕は迷わず歩み寄る。
「やあ」
少年の姿をした蜃気楼が声を掛けてきた。昨今の幻は人語まで操るらしい。少し愉快になって、僕は問いかける。
「あの、此処は何処でしょう」
嗤(わら)う蜃気楼。馬鹿にされた気がして、僕は眉根(まゆね)を寄せた。少年の笑みがあざといまでに深くなる。
「変なこと聞くね。じゃあ君は何で此処に居るのさ。此処が何処かも知らないで」
「……それも分からないんです」
正直に答えるのは気が引けたが、他に少年に返す言葉は思い浮かばなかった。何故、僕はこんな所に。白く霞(かす)んだ周囲の風景が急速に現実味を失っていく。
「変なの。でも、それも無理ないか。理由なんて在る筈ないものね」
そう言って、徐(おもむろ)に少年が距離を詰めてきた。動けるのか、こいつ。咄嗟(とっさ)に身をかわそうとした僕になどお構いなしに、彼は僕の胸に突っ込んできた。そのまま僕の身体をすり抜けて、歩み去る。……そうか、幻なら人体をすり抜ける事も容易(たやす)いという訳か。憮然(ぶぜん)とした面持ちを隠そうともせず、僕は遠くなる少年の背を見送った。結局問題は何一つ解決しないまま、日差しばかりが強くなったようだ。少年の背が揺らいで消えた。
 それからどれだけの時間が経っただろうか。当ても無く一本道を歩き続ける僕の前方に、今度は二つの人影が出現した。揺らぐ姿は男女のもの。今度は二人連れの蜃気楼らしい。何か言葉を交わしながらこちらへと歩み寄ってくるのを、僕は足を止めて待ち受けた。
「すみません」
あの少年が喋(しゃべ)れたのだから、彼らも話が出来るだろう。そう考えて声を掛けたのだが、二人連れは僕など存在しないかのように声を無視し、またも僕の身体のど真ん中を不躾に通過していった。全く、どの幻も感じが悪い事この上ない。舌打ちが漏れるのもやむを得まい。

 延々と蝉しぐれの道を歩いているうちに、またもふうっと意識が遠くなった。倒れそうになり、ふんばる。よろめいた身体を支えようと傍らの石壁に手をつこうとしたその時、僕の腕は硬い石壁をすり抜けて肘(ひじ)の辺りまで埋まった。

'07年7月「蝉しぐれの道を歩いているうちに…
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夏景

Nyusen2山本歩さん 19歳
(関西学院大文学部2年)


■7月の書き出し
  蝉しぐれの道を歩いているうちに、ふうっと意識が遠くなった。倒れそうになり、ふんばる。乾いた空気が何層もの壁みたいになって、立ちはだかっている。シャワシャワ……蝉すら物憂い。
  熱気か、それとも、まつ毛に腰掛けた汗の玉がそうさせたのか、それすらわからないがとにかく、視界は酷(ひど)く揺らいでいた。ぐんにゃりとしたその景色の端、木陰に男が立っていた。赤を基調にした派手な柄シャツ……
「道を尋ねたいんですがね」パナマ帽を脱いで、男は僕に近寄ってきた。なんだろう、生臭い……
「道を尋ねたいんですよぉ」再度言った。
  整った髭、その上には、ぎらぎら光る、大きな目玉が……絶えず歪(ゆが)む男の姿の、いや見える景色全ての中で、この目玉だけ揺るぎない、くっきりとした光を持っている。くらくらするほどの、明確さだ。
「尋ねたいって、どこへの道をですか?」
「出口だよ、『ここ』から出るための……君も『ここ』から出なくちゃいけないんじゃないかい?」
  シャワシャワシャワ……蝉の声が脳を麻痺させる。出口? なんだこの男は。くらくらする。
「景色が歪んでいるだろう? 世界が歪んでいるだろう? ここはでっかい金魚鉢の中なのさ」
  金魚鉢? 確かに……ゆらゆら揺れている。ぼやけて、歪んで……風景は踊っている。水のたっぷり入った、金魚鉢の中にいるよう……
「みんな金魚鉢の中なんだ。ビードロに包まれて、溺れてるんだよ。まぁるい金魚鉢の中から、逃げられないんだ」
  シャワシャワ……蝉の音の中に、突如、キーン、という音、というか振動のようなものが走った。肌が汗に包まれていく。
  汗……なのか、水なのかわかりゃしない。よろけて、何もない空間に手を伸ばす。ひやり、とした……感触を感じた。ガラスを触ったような。
      
  シャワシャワシャワ……蝉が、鳴き続けている。片膝をついた僕がそこにいる。地面に汗が流れて、一瞬で乾いていく。目眩(めまい)を起こしたようだ。目の前には男なんていない。僕しかいない。
  喉(のど)はカラカラだ。ここは水の中なんかじゃない。金魚鉢の中なんかじゃ……大丈夫、大丈夫。
  立ち上がって、ふと足下を見ると、ちっぽけな赤い物体が転がっている。干からびた金魚の死骸だ。金色の大きな目だけ、生きているようで……
  蝉しぐれは降りかかる。変わらず、ぐんにゃりとした視界に、やがてまた何かが入ってきて、僕は目を細めた。太陽も、蒼天(そうてん)も、夏虫の声も、何もかも溶けていく……なにもかも……

[2007年7月9日掲載]



Alicekara_1
 真夏の暑さからくる物憂さ、歪み、揺らぎが伝わってくるだけでなく、そこに死んで動かなくなった金魚のイメージをうまくかぶせてあります。金魚鉢の中にいるような歪みというのも抜かりのない描写です。

'07年7月「蝉しぐれの道を歩いているうちに…
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通り道

Nyusen2中村祥子さん 18歳
(小林聖心女子学院高校3年)


■7月の書き出し
  蝉しぐれの道を歩いているうちに、ふうっと意識が遠くなった。倒れそうになり、ふんばる。が、どうにも辛くて、私は土塀づたいにずるずると座り込んでしまった。
  日よけになるような木は一本も無い。蝉の声は土塀の向こうから鳴り響いてくる。塀の向こうは、一体何があるのだろうか。
――この辺りは、お通りが多いのだ。
  友人が、以前そんなことを云っていた。
――よく行き会ってしまうから、困る。おい、もしも「通って」いるのが分かったら、決して顔をあげるなよ。
――あげてしまったらどうなる。
――どうにもならんさ。ただ、「揺れる」

 じいー じいー じいいい

 蝉が煩(うるさ)くってたまらない。

 私は、多分「揺れて」いる。困った。恐らく、まだお通りは終わっていないのだ。日差しはじりじりと照りつけてくるというのに、私の体はここから動くことが出来ずにへたりこんでいる。ああ、早く日陰に移動したい。もういやだ。はやくおわってくれたのむからおわってくれつらくてしょうがないここからだしてくださいおねがいです――おかあさん

 じいー

 子供の頃、悪いことをすると押入れに閉じ込められた。真っ暗なあの押入れの隅から、いつかするすると白い手が伸びてくるような気がして、恐ろしくて堪らなかった。

 あの押入れの向こうは、きっとこの土塀の向こうだ。

 じいー じい じい じい

 どこからか線香の匂いがする。読経の声も聞こえた。呪詛(じゅそ)であったかもしれない。両方であったかもしれない。

 私は頭を抑えながらふらりと立ち上がった。蝉しぐれの道の向こうから友人が歩いて来るのが見える。
  ちょうど今しがた、「通って」いったよ。
 挨拶代わりの言葉は決まった。友人は何と言うだろうか。

 蝉の煩い、真昼のことである。

[2007年7月2日掲載]



Alicekara_1
 白昼夢ですね。全編にわたって蝉しぐれが聞こえ、書き出しを作品に溶け込ませてくれました。「真っ暗な押入れ」「白い手が」で文字どおり陰影が出ていて、コントラストが強い真夏の情景につながっています。

'07年7月「蝉しぐれの道を歩いているうちに…
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