断罪

Nyusen2渡辺 翔大(しょうた)さん17歳(関西学院高等部3年)



■8月の書き出し
  やめたい、でもやめられない。そんな癖が誰にでも一つや二つはあるものだ。俺の盗癖も癖なんだから仕方がないさ。
      
  「そんなの言い訳にならないわ」深夜近くまで続いた残業の帰り。今日も最終バスの中で呟(つぶや)いた。
  読んでいた単行本に栞(しおり)を挟んでパタンと閉じる。バスには私しか乗客がいない。窓ごしに外を見れば、都会の毒々しいネオンが、走馬灯のように迫ってきては後方に吸い込まれてゆくのが目に映る。
  主人公が最悪だった。主人公は盗癖を持つ不良少年で、消しゴムや櫛(くし)といった些細(ささい)なモノばかり盗むのだが主人公はそれを反省することなく逆に自分の盗みを盗癖だからと正当化してしまっていた。
  やめたい、でもやめられない。だなんて意思の弱い人間の屁理屈にしかならないし、自分を無理矢理に納得させたって盗みが悪事であることに変わりはない。
  小説はあと八割ほども残っているけれど、どちらにせよ主人公の性格が癪(しゃく)に障ったのでこれ以上物語を読む気持ちにはなれなかった。
  ガタ、ゴト、ガタ、ゴト……

 断続的に続くバスの揺れにうつらうつら舟を漕いでいると、いつの間にか私の降りるバス停に到着した。
  疲労で重くなった腰を座席から引き離して、まどろんだ意識の中運転手に軽く会釈し、代金を払って下車した。気のせいか運転手に睨(にら)まれた気がしたけれど気のせいだろう。
 と、座席にあの小説を置き忘れてしまったことに気付いた。慌てて取りに戻ろうと振り返るが、すでに後の祭りでバスは発車した後だ。
 はあ、またやってしまった。私が居眠りであのバスに本を忘れたのは、なんとこれで三回目。実を言えば忘れ物をする癖は私の悪癖だ。
 でも、まあいいか。どうせ読む気が失(う)せた本だし。置いてきてしまった本にあっさり見切りをつけると、私は再び家路についた。
      
 「まただ…あの女。また置いていきやがった」バスを車庫に入れた運転手は、女性が座っていた座席を顔面蒼白(そうはく)で凝視していた。額には脂汗が浮かび、怒りとも恐怖ともつかぬ表情でガタガタと震えている。
「もうすぐ盗みが時効を迎えるってのに、この時間に俺のバスに乗るあの女…必ず一冊、単行本を置いていきやがる。最初は只(ただ)の忘れ物かと思ったが、栞が挟んであるページを見れば俺のことを示唆している文章ばかり。もしやあの女、俺の盗みを知っていて脅迫してやがるのか! 冗談じゃねえ。強請(ゆす)られるぐらいなら自首した方がマシってもんだ!」
 翌日、この運転手は時効一週間前にして自首した。

[2007年8月27日掲載]



Alicekara_1
 変なお話なのですが、展開にジャンプがあってとても楽しい。視点が運転手に切り替わった瞬間、読者に「ん?」と思わせるところがうまい。なるほど、この女性はバスで忘れ物してしまうのが癖なのですね。

'07年8月「やめたい、でもやめられない…」
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選考を終えて(8月)

 日常的でリアルな癖から、ありえないシュールな癖まで、様々な不思議の物語が寄せられました。落語タッチのものがたくさんくるかと思ったら、そうではありませんでしたね。落語にしやすい書き出しだと思ったのですが、前月に続いて予想がはずれてしまいました。といっても、失望したわけではありません。〈癖〉を広い意味に解釈したのびやかな作品が多く、シリアスな力作も目立ちました。小説を書くのが癖になった人が大勢いそうですね。

 さて、佳作の「五つ目の癖」は、応募作中で最もひねくれた作品でした。真面目にナンセンスを語ったのがいい。どうして〈私〉がこんな発想をするようになったのだろう、と腕組みしそうになりましたが、そんな説明をしたら、おもしろみを損なってしまうのでしょう。

 「彼女の悪い癖」は、仕掛けのある小説です。冒頭の二重括弧がダブっているではないか、と思いながら読み始めて、ラスト近くで「あれ?」と戸惑いました。〈覘く〉と〈覗く〉の使い分けにも意味があり、芸が細かい。油断がなりませんね。

 佳作のお二人は、どちらも東京の理系の大学に通っている四年生の男性ですが、もちろん偶然そうなっただけです。

'07年8月「やめたい、でもやめられない…」
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彼女の悪い癖

Kasaku2_4 佐藤 雄一さん 22歳 (東京理科大理学部4年)


■8月の書き出し

 やめたい、でもやめられない。そんな癖が誰にでも、一つや二つはあるものだ。
悪癖は隠すべきだし、他人のものなら知らないほうが身のためである。例えばこんな話があった。
 『『彼女は卓上電気を消し文庫を並べ直す。乱暴に広げられたファッション誌を、乱暴なままに整える。机の左隅を占拠している化粧品も寸分たがわぬ状態に戻す。上から三番目の抽斗(ひきだし)は開けてあった。椅子はわずかに傾けておく。目覚まし時計や写真たての微妙なズレも見逃せない。無造作に転がっていたぬいぐるみも、無造作のままにする。立て鏡はもちろん正確に戻す。斜めにずれたカーペットも同じだ。後は……。いや、大丈夫。完璧だ。須藤美香は自分に言い聞かせた。
 再び机へ近づき、自分が触れたものを注意深く確認した。額に汗が滲(にじ)む。この緊張感が堪らない。心臓がぎゅっと締め付けられ、下腹部が妙に温かくなる感覚。見られているかもしれないという不安が、ここだけしか味わえない気分を増大させた。間もなく妹は風呂を上がる。それまでに片付ける。鏡の指紋を拭って作業を終えた。つま先で、音を立てず、何所にも手を触れず、部屋の入り口に戻る。ハンカチを取り、ノブを握る。一階、妹が風呂を出た。声がする。急ごう。手の汗がハンカチに染入る。僅かな隙間を開け、流れるように部屋を出た。手の力を緩めると、ノブは勝手に戻った。足音がする。階段まで来ている。早く、自室へ。
 手を伸ばし、ドアを開け、引き上げた。自室に戻ったのと、妹が二階へ上がって部屋へ帰ったのが、同時だった。どこからか風呂上りのなんともいえない香りが漂う。ドアを閉める際に香りを巻き込んだのだろう。
 力が抜け、その場に座り込む。須藤美香は、この脱力感でさえ魅力と感じていた。深呼吸をし、火照(ほて)った頭を冷やす。妹の部屋の物音に敏感になる。……テレビをつけた。パソコンを立ち上げた。ドライヤーを使っている。と、様々な情報が得られる。想像しているうちに、先ほど覗(のぞ)いた日記を思い出す。……今日はあの子と遊んだ。カレとケンカした。来週はテスト。ページ毎に頭の中で捲(めく)り返した。
 やめられない。須藤美香は微笑んだ。やおら身体を起き上げ、壁に耳をあてる。電話で話している。男だろうか、女だろうか……。
 やめられない。明日は何を覘(のぞ)こう……。昨日は携帯電話、先日はパソコン、今日は日記、明日は何を覘こう……。』
  と、文章はそこで終わっていた。須藤美香は汗だけになっていた。手は震え、脚は崩れていた。怖くなり、文章を投げ捨て、「それ」を読んだことを後悔した。昨日までの行為を後悔した。がくがくと震えながら、「それでもこんな姿まで妹に覗かれているのでは」、という考えが頭を過ぎると、全身が寒気に襲われて動けなくなった。』

'07年8月「やめたい、でもやめられない…」
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五つ目の癖

Kasaku2_4 木村 幸太郎さん 23歳 (東京電機大情報環境学部4年)


■8月の書き出し

 やめたい、でもやめられない。そんな癖が誰にでも、一つや二つはあるものだ。

 例えば、私の場合、足で歩く、肺で呼吸するなどと言った癖がやめられない。
 何故なのだろうか、腕を組む。
 そう考えているうちにも、私は目的の本屋を見つけ、そこへ向けて足で歩く。その間にもしっかりと肺で呼吸している。そこで、私は何冊かのミステリィを手にし、目で読む。気づく。
 いかん、また私の癖が出てしまっているではないか。
 つまり、私は無意識に、手で本を掴(つか)み、目で活字を読むといった癖を出してしまっていたのである。
 これはいかん。無くて七癖というが、私の場合もう四癖が露呈してしまっているではないか。そこに私はひどい罪悪感を覚えた。
 困ってしまって、腕を組む。
 そこで私は試しに、全ての癖をいったん矯正することにした。それはつまり、足で歩かず、肺で呼吸せず、手で本を掴まず、目で活字を読まぬと言う事だ。
 試しにまず、足で歩くことから矯正する。つまり手で歩いてみることにする。靴を脱ぎ、手にはめ、倒立し、文庫コーナーからの移動を開始する。
 やや頭に血が上り、苦しいが、意外と簡単に矯正が行えたので、私は次に手で本を読むといった癖を矯正することに決めた。そこで私は興味のある本、つまりさっきのミステリィを掴むことにした。当然、掴むパーツは足である。私は暇に物言わせて培った技術を駆使し、その本をとることに無事成功した。
 そして、目で活字を読む癖を矯正することにした。瞼(まぶた)をつぶり、すね辺りで光を感じる。それは読むというより、思い出すに近かったがまぁ良い、ひどくページがめくり辛いがまぁ良い。
 これで三つの癖に矯正の目処がたった、後一つ癖を矯正すれば、私は癖の無い全うな人生を歩めることになる。そんな気がした。
 そこで私は最後に肺で呼吸をすることを止めた。口を閉じ、鼻に力を入れ呼吸をすると言った悪癖を止めること成功した……かに思われた。
 その刹那、私の姿勢は崩れ、ガツンと本棚にカカト落としを喰らわせる格好となった。
 あまりの音に書店員が集まってき、私を見つめていた。
 私は恥ずかしさのあまり、口を開き一呼吸してしまった。そのまま、倒立し、店を出るように努めたが、書店員の冷たい目が痛く、仕方なく私は足で歩くといった癖を行い、手で本と金を掴むという癖を行い、書店を後にすることにした。
 店員の「ありがとうございました」の声が痛かった。
 何が悪かったのだろうと私は悩む、そうして私は腕を組む。

'07年8月「やめたい、でもやめられない…」
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君 へ

Nyusen2觜(はし)本(もと)あかねさん 21歳(関西学院大文学部2年)



■8月の書き出し
  やめたい、でもやめられない。そんな癖が誰にでも一つや二つはあるものだ。だから気にすることはない。そう、君は言った。
  幼く見えるこんな癖なんて直したいのに、と私が言ったら、良いじゃないか愛嬌があって、と君は笑った。
  暑い日だった。思い出したようにしか吹かない風が、気怠(けだる)げに風鈴を鳴らしていた。何の前触れもなくふらりと現れた君は、食べてくれ、と言って小さな芋をいくつか呉(く)れた。
  私が芋をふかしている間、君は畳に寝転がってラジオに耳を傾けていた。流れてくる声は、私達の国が遠くの地で戦い、勝利したと告げる。
  そのときだ。仰向けに寝ていた君はむくりと起き上がり、私を見据えた。
  ――なあ。
  ――何だ?
  ――僕のところにも、遂に来たよ。
  ――……赤紙、か?
  君は黙ってうなずいた。しばらく沈黙が流れた。
  チリリン、と風鈴が鳴った。君はまた寝転がると、天井を見上げ、いつになく深い溜め息を吐いた。
  そうだ。君は優しい奴だから、ずっと今の世を嘆いていたな。たとえ敵でも、人が死ぬのは嫌だと言っていた。その君が戦地に赴いて……その手で人を殺すのか?
  ふかした芋を食べながら、君はぽつりと呟(つぶや)いた。
  ――戦うのは、人の癖なのかな?
  ――どういう意味だ?
  ――やめられない癖といったって、本気で直したければ直るだろう。戦いもそうだ。やめようと思ったらやめられるはずなのに……。
  そこで君はふっと宙を睨(にら)み、いや違うな、と言った。
  ――やっぱり戦うのは癖なんかじゃない。癖ってのは大概人を傷つけないものな。
  一体、これは何なんだ。何度も何度も繰り返して。……ああ、何て寂しいんだろう、僕たちは。
  そう言った君の声を、泣き出しそうに震えた眉(まゆ)を、今でもありありと思い出せる。そして君はいつもの癖で、軽く首をすくめてみせた。何でやめられないんだろうね、と言いながら。
  結局それが、君との最後の思い出になった。
  あれから、たくさんの涙が流された。たくさんの生命が奪われた。たくさんの祈りがかき消された。君の存在も、また。
  私たちは、何度繰り返せばやめられるのだろう。傷つけあうことを、苦しめあうことを……この哀しみを。君の声が今も聞こえてくる。何でやめられないんだろうね、と。
  君が異国の土になって、六十余年。答えを出せぬままに、また夏が巡ってきたよ。

[2007年8月20日掲載]



Alicekara_1
 落語じみた書き出しから、こんな小説が生まれるとは。感心、いや感動しました。「君へ」の題名どおり、亡き友へ語りかけるという構成も素晴らしく、「また夏が巡ってきたよ」の「よ」でとどめを刺されました。

'07年8月「やめたい、でもやめられない…」
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夢のアルバイト

Nyusen2吉浜 遥さん 18歳(平成リハビリテーション専門学校1年)



■8月の書き出し
  やめたい、でもやめられない。そんな癖が誰にでも一つや二つはあるものだ。
  僕の癖というのは全く困ったものである。それはよく居眠りをすることだ。原因は解らない。確かなことはバイト中にその癖が出てしまって長続きしたことがない。今日もやはりその癖が出てクビになった。フリーターの僕に辛い現実が突き付けられる。明日からどうしょうか…と考えていると携帯が鳴った。受信されたメールを見て僕は思わず息を呑(の)んだ。
『夢みるアルバイト募集中! ただ眠って頂くだけで結構です。アルバイト希望の方は××町の○×ビルまでお越し下さい!』
  なんて美味(おい)しい話なんだと思う傍ら、夢を買うなんて話聞いたことがない。悪戯(いたずら)だろうかと半信半疑でそこに向かった。
  そのビルは果たして使われているのだろうかというほど古臭いビルだった。ビルの中に入り声をかけると白衣を着た男がでてきた。男は髪を油でベットリと撫(な)で付けており、胡散臭(うさんくさ)い笑顔を浮かべていた。
「ようこそいらっしゃいました! ささ! こちらです!」
古臭いビルに胡散臭い男…本当に騙(だま)されたんじゃないかと内心思ったが、僕は男に促されるまま奥に進んで行った。ドアを開けるとそこはなにやら機械がたくさんあって真ん中にぽつんと椅子が一脚置いてあった。僕はさすがに不安になり本当に眠るだけで良いのかと尋ねた。
「えぇ! 勿論ですとも! 私はとある会社の者でしてね、睡眠中の脳に刺激を与えると夢を見ている脳がどう変化するのかという研究をしていまして。ああ! この研究はかなり安全ですので脳に何等かの障害が起きるというのは万に一つなのでご安心ください!」
ははん。それでこんなおんぼろビルでやっているんだな。警察にばれちゃマズイのか。と勝手に解釈し、男の実験の説明を聞いた。
  帰る頃に僕の手には報酬が握られていた。
  なんて良いバイトなんだろう! 僕の癖が初めて生かされた! 脳に刺激を与えるのも痛くも痒(かゆ)くもなかった。僕は浮足立って帰宅した。
  何日かして僕は又、例のバイト先に向かった。男は相変わらずの姿で僕を迎え入れる。
「最近、被験者の方が多くてですね、ここ最近疲れましたよ」
そう言って苦笑いをする男。僕からしてみれば窶(やつ)れたというより少しふっくらとしている気がしたが、男が気を悪くするといけないので口をつぐんだ。この前と同様に僕は椅子に座って眠りに就いた。
  ボンッ!
  突然、大きな音が鳴り響き驚いて目を覚ました。辺りを見回すと以前あった機械はなくただの殺風景ながらんどうになっていた。男を捜してみるも姿がなく、おぅいと呼びかけても返事がない。
  いったい何があったのだろうか。ふと足元を見て僕はギョッとした。そこには、お腹を膨らませた貘(ばく)が目を回して倒れていた…

[2007年8月13日掲載]



Alicekara_1
 「ただ眠って頂くだけで結構」というアルバイトとは? その謎だけでラストまで気持ちよくひっぱられます。「さてはアレが雇い主かな」と予想がつきましたが、最後の文章が予想外にかわいいのでOK。

'07年8月「やめたい、でもやめられない…」
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真夜中の邂逅

Nyusen2塩谷 友望(ゆみ)さん 16歳
(関西大学第一高校2年)


■8月の書き出し
  やめたい、でもやめられない。そんな癖が誰にでも一つや二つはあるものだ。
  この、真夜中に家を抜け出しては近所をぷらぷらと徘徊(はいかい)する癖。職務質問されたり補導されそうになったりと洒落(しゃれ)にならないことが多いので、やめようとは思うのだが、気が付くとこんな風に真っ暗な堤防を歩いていたりする。
  ひらけた視界の隅に小さな違和感があって、ふと足を止めた。
  だだっ広い河川敷の原っぱに少年が一人、ぽつんとつっ立ってこちらを見ている。なんだろう、自分に何か用だろうか。怪訝(けげん)に思い、こちらも見つめ返す。どこかで見たことのあるような顔だち。おかしいな、あんな知り合いいたっけ……。
「あ」
  唐突にパッと記憶が繋(つな)がり、思わず声をあげた。なかなか思い出せなかったのも無理はない。彼は十年以上昔の、小学校の頃の友人だった。予期せぬ再会に懐かしさがこみ上げる。大声で名を呼ぶと、彼はにこりと笑って手を振った。その笑顔に、何か首筋がざわりとするような既視感を覚えて、首をひねる。
  俺のこと分かるよな。久しぶりだなあ、今何してんだよ?
  そう軽く問いかけようとして、はっと息を飲み込んだ。たった今目が覚めたような心地で、かつての友人を凝視する。
  彼は、生まれつき病弱だった。しょっちゅう学校を休み、そのたびに自分が家まで宿題を届けに行った。彼はあまり外を動き回れない代わりに色んなことを知っていて、話をするのは時間を忘れるほど楽しかった。学校に行かなかった日もそうでない日も、彼は自分が訪れるとそれは嬉しそうに笑ったのだった。ちょうど今のように。
「あ……」
  急に息が苦しくなってきて、胸の辺りをつかんだ。喉(のど)が詰まってうまく声が出せない。先程の暖かな懐かしさとは比べ物にならない、焼けつくような感情の波が押し寄せる。記憶の底から、冷たくなった彼の手を握ってむせび泣く幼い子供の姿が浮かび上がった。
  立ち尽くしている間に、彼は幻のように消えてしまった。呪縛(じゅばく)が解け、弾かれたように土手の坂を駆け下りる。途中石か何かにつまずいて、そのまま景気よく草はらを転がって行った。平地に着いた時には体じゅう草まみれだった。
  あお向けになった視界に、夏の綺麗(きれい)な夜空が広がっている。
  そうか、今日はお盆だったのか――。
  なんとなくしばらく地面に寝転がったままでいた。ぐすり、と鼻をすする音が静かな夜の空気にとけて消える。妙な癖も、たまにはこういった思わぬ出来事にめぐりあわせてくれるものだ。

[2007年8月6日掲載]



Alicekara_1
 一種のゴーストストーリーですが、温かみのあるお話になっています。語り手が大げさな反応をせず、「そうか」と納得するのがいいですね。最小限の描写なのに、真夏の夜の雰囲気がよく伝わってきます。

'07年8月「やめたい、でもやめられない…」
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