黒とか白とか
尾崎 孝さん 18歳(大阪府立大生命環境科学部1年)
■6月の書き出し
がらんとした昼下がりの美術館で絵に見入っていると、不意に声をかけられた。
「その絵が、お好きですか?」
振り返ると、銀髪の老紳士が穏やかな笑みを浮かべて立っている。なんだか見覚えのある顔だった。彼も私と同じく、ここの常連なのかもしれない。
「先程から、随分熱心に見ていらっしゃるようなので」
私は何と答えたものか迷った。というのも、私はこの、今目の前にある絵が特に好きな訳ではないのだ。タイトルは『黒とか白とか』。黒い丸と白い丸が幾つも重なり合い、また縦横無尽に白い線と黒い線が引かれている。曖昧(あいまい)なタイトルが示す通り、何を描いているのか何を伝えたいのかさっぱり分からない。私はどちらかというとこんな抽象画よりも、分かりやすい写実的なものが好みなのだ。だが、実際のところ私は美術館にはこの絵を見るためだけに通っている。
「この絵は私にとってはお守りみたいなものでして」
私が話し出すと、老紳士は興味深そうに「ほほう」と目を輝かせた。
「実は私は小説家なんです。昔、ひどいスランプに陥ってしまったことがありましてね。何も浮かばない何も書けないといったひどい状況でした。そんな時妻から『気晴らしに美術館にでも行ってきたら?』と勧められ、この絵を見つけたのです。最初は変な絵だなあとぼんやり眺めてたんですが、そのうち頭の中に小説のアイデアがぱっと浮かんできましてね。それからというもの、不調の時はこの絵を見に来るのです。そうすると不思議と面白い物語を思い付くんですよ」
老紳士は一瞬戸惑ったように見えたが、すぐに大きく頷(うなず)き、にこやかに「それはこの絵が素晴らしいからですよ」と言い、『黒とか白とか』がいかに芸術作品として優れているかを熱っぽく語った。まるで恋する若者のように。彼は一通り話すと満足したのか、別の絵画の方に去っていった。
おかしい。何かが違う……。老紳士と別れた後小一時間ほど絵の前で過ごしたのだが、全く何も浮かばない。こんなことは初めてだ。もう帰ろうかと思っていると、再び老紳士が現れた。
「どうです、なにかいいアイデアは浮かびましたか?」
「いやあ、今日は全然ですよ。まあ、所詮はジンクスの類ですしね」
「貴方(あなた)には申し訳ないことをしたと思っています」
「え?」
「貴方が今日見ていたのは偽物ですよ。本物は、今朝貴方が来る前に私がいただいちゃいました」
そう言うと老紳士は、優雅な足取りで美術館を出ていった。……私はからかわれたのだろうか? それとも、彼は本当に……? 私の頭の中は、まるであの絵のように黒と白の疑いでいっぱいになっていた。
[2009年6月8日掲載]
小説のアイデアを授けてくれる抽象画。こんな絵が実在するなら、私も作中の美術館に通いたい。罪なことをする老紳士の正体は何なのでしょうね。割り切れない思いが残りますが、それは解けない謎なのでしょう。

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