watchcat
住永 佳奈さん 20歳(京都大法学部3年)
■6月の書き出し
がらんとした昼下がりの美術館で絵に見入っていると、不意に声をかけられた。
「にゃーお」
あまりにも美術館に不似合いなその声に、私は床から何センチか飛び上がるほど驚いた。呼吸を整え、鼓動を鎮めてゆっくり振り向くと、案の定そこには一匹の小さな猫がいた。
いくら閑散とした美術館でも、猫はまずい。まずすぎる。絵が傷付くかもしれないし、何より警備員がやって来でもしたら、私の目的は台無しだ。この猫には何とか平穏にお帰りいただかねばならない。私は慌てて抜き足差し足、猫を入り口へ追い立てるが、そんな私の手から猫はするりするりと抜けていく。猫が体をくねらせて歩くたびに、首もとの鈴がちりんちりんと乾いた音を立てた。
みゃーん。ちりりん。すたすた。猫は踊る。全く捕まらない。いよいよまずい、と冷や汗をかき始めた時、私は、自分が猫を追い立てているようで実は自分が猫に誘われてある場所へと近づいていることに気付いた。視線を上げると、さっきまで気付かなかった小部屋がある。みゃーんと鳴きながら、猫は扉の隙間(すきま)からためらいなく中へ入っていった。反射的に続いて足を踏み入れると、そこには光の差す窓に顔を向けて、一人の老紳士が立っていた。
「おや、お客様ですか」
そうですよ、とばかりに猫がゴロゴロ喉(のど)を鳴らす。
「私の絵はいかがでしたか?」
この言葉で、私はようやくこの紳士が個展の主催者であることを知った。画家の名前も知らずに盗もうとしていたとは…自分の間抜けさに情けなくなる。
「ええ、素晴らしいものでした」
ぐっと緊張をこらえここまで言い終えたところで、小心な私の中に突然復讐(ふくしゅう)の炎が燃え始めた。私の目的を少しくらい話しても差し支えあるまい。なに、猫に散々苦労させられた仕返しにちょっと脅かすだけだ。
「素敵(すてき)でしたよ。思わず頂きたくなるくらいにね」
紳士はふふふと面白そうに微笑(ほほえ)み、猫を抱き上げた。
「あなたのような愉快な人が、私の最初で最後の個展に来てくださってよかった。話に付き合っていただいたお礼に、ぜひともこの絵をあなたに」
紳士の指さした先には、黒い大きな包みが一つ。これは願ってもないチャンスだ。私は紳士に軽く礼を述べた後、喜び勇んでそそくさと美術館から退散した。
その夜、包みを開けてみると、中に紳士からの手紙が同封されていた。
「私の警備員は中々優秀でしょう。検挙率100%です。今まで色々な方と話をしましたが、あなたとのお話は非常に楽しかった。今日の記念に、一枚どうぞ。追伸。今後はよからぬ事を考えないように。」
絵の中から、あの猫がこちらをじっと見つめていた。
[2009年6月15日掲載]
がらんとした昼下がりの美術館と小さな猫の取り合わせが魅力的。しかも、そいつは語り手をどこかへ誘導しようとする。この情景を描いただけでもお見事。ここはやはり番犬ではなく、watchcat(番猫?)でしょう。

コメント