火だ。
熊澤 辰徳さん 21歳(神戸大理学部4年)
■1月の書き出し
マッチを擦り、闇に火を灯(とも)した。
「何が見える?」
「火。」
「おー正解。でも危ないから手を近づけないでね」
そう言われると、少女は頷(うなず)き静かに火を見つめた。彼はろうそくを金属製のろう立てにすえ、机においた。
さっきいきなり停電になり、不安そうに彼にすがりついていた少女は、ろうそくの火を見て幾分落ち着いたようだった。少女はちらちら揺れる火を無心に眺め続けている。
少女の叔父である彼は、言葉の不自由な少女の扱いにもかなり慣れている。仕事柄何日も家を空けることの多い彼女の父、つまり彼の兄に代わり、また二年前に亡くなった少女の母に代わり、彼が少女の面倒を見る機会が多かったからだ。
「もうしばらく電気つかないかもしれないし、ちょっと早いけどもう寝ようか」
彼がそういうと少女は「ん。」と答え、ろうそくを持った彼について洗面所へ行き、おぼろげな明かりの中で歯を磨いた。そして手さぐりで布団を敷き、一旦(いったん)ろうそくを枕元に置いて、まだ眠くない少女のために彼が作った物語を話して聞かせた。
少女が初めて言葉を話したのは三歳の時、それもただ一言「あ、」と言っただけだった。それは丁度(ちょうど)、少女の母が息を引き取ったのを見た時に、少女の口から漏れた言葉だった。それまで何故(なぜ)か全く喋(しゃべ)ることが出来なかったので、これからはいろんな言葉を話せるようになるかと思われたが、来年から小学生になるというのに、未(いま)だに一文字以上の言葉を発することは出来ないでいる。だから少女は、一文字で答えられる質問をされることが大好きだった。
寝付いて少しした後、少女が不意に目を覚まし、枕元でまだ燃えていたろうそくをじっと見つめた。そして「火。」とつぶやき、おもむろに火に手を伸ばした。火が熱いものと知らない少女の指が橙色(だいだいいろ)の光に炙(あぶ)られると、少女は「あ、」と声をあげ、手をはたはたさせた。そのはずみでろうそくは倒れ、ちろちろとカーペットに、そして布団に火が移っていった。少女は「火、」とつぶやいたきり叫ぶことも出来ず、彼をゆすったがいっこうに起きる気配がなかった。指先の焼け焦げた熱さを思い出して怖くなり、少女は必死で炎から逃れ、声も出さずに泣きながら家から出た。
ひくひく泣いている少女を見かけた近所のおばさんが声をかけたが、少女が「ひ」としか言わないので、少しして彼の家から煙が出たのを見るまで事態をのみこめなかった。やがて本格的に家が燃えはじめても、少女は「火」としか言えなかった。しかし、やっと消火活動が始まったころ、少女は急に「火だ。」と言った。それが丁度、彼が帰らぬ人となった時と一致したことには、さすがに誰も気づかなかった。

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