青いケーキ
森井 公美さん 22歳
(大阪女子大人文社会学部3年)
■9月の書き出し
初めての店に入るのには、ちょっと勇気がいる。まして、その扉にこんなことが書いてあったなら。
「『お一人様限り』?!」
確かに広そうではないが、極度に狭いようには見えないその喫茶店は、駅から少し離れた静かな場所にあった。待ち合わせ時間より一時間も早く着いてしまった僕は、読みかけの文庫でも読もうとうろうろしているうちに、この店の前にいたのだ。注意書きは奇妙だけど、読書するには良いかもしれない。扉を押すと、カランと軽い音がして、ゆるやかなクラシックが耳に流れ込んできた。
「いらっしゃいませ」
カウンターで、マスターが待ってましたとばかりにお辞儀をした。そこから少しはなれた店の中央に、机と椅子が一人分あり、後はガランとしている。僕はそこに座り、メニューを広げた。そこにはたった一つ
「ケーキセット(コーヒーor紅茶)」
と書かれている。メニューの必要性が全くない。特に甘いものは食べたくなかったので、一応「コーヒー」とだけ注文したが、やはりケーキセットが出てきた。しかも丸いケーキはブルーのクリームがたっぷりのせられ、その上さらにラズベリーと飴(あめ)で作られた金色の羽がトッピングされている大変可愛らしいケーキだ。男一人で食べるのはちょっと恥ずかしい。先に食べてしまおうと、僕は急いでケーキを口に運んだ。
さわやかな甘みがすごい勢いで口の中で広がり、その衝撃で僕の世界はぐるりと真っ逆さまになった。
日本の逆さまの先はブラジルだ。深夜だった。犬が鳴いている。さらにケーキを頬張(ほおば)ると、体が伸びてしまうかと思うぐらい加速していく。カナダの老婦人が朝日を眺めていた。学校ではさまざまな肌の色をした子供がはしゃいでいる。ロシアでは美しい女性が写真を握り締めて泣き、月を見上げて中国の男の子が懐かしい歌を謡う。
同じ月を見て傷付いた兵士が神の名を叫ぶ。地球の反対側では太陽と共に赤ん坊が産声を上げる。蝙蝠(こうもり)が日の出に驚いてねぐらに帰り、月の出と共に海亀が産卵を始める。
親に傷付けられる子がいる。友に裏切られる人がいる。自分を傷つける少女がいれば、自分に値をつける少年がいる。
空を見上げる誰かがいる。
僕と、目が合った。
やがて地球は減速していき……。
ケーキを食べ終わって、コーヒーをすすっていると、待ち合わせしていた友達からメールがきた。僕は会計を済ませて店を出る。振り返るとマスターが「Closed」の札を出していた。
後日何度かその店を探したが、結局二度とあのケーキを食べる事はなかった。
[2006年9月25日掲載]
危ないケーキ! でも、一度ぐらい食べてみたい。イメージの万華鏡に、くらっときました。かなり推敲したのでしょうね。推敲こそ小説を書く醍醐味だ、と森井さん確信しているはずです。次回も期待しています。

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